Here

ひどく寒くて体が大きく震え、その振動で目が覚めた。
頭は重いし体中痛いし、霞んだ視界に入ってきた色彩は水色やら緑やら寒々しい色ばかりで、目覚めの爽快さ、なんて別の世界の言葉のようだ。ビリーは機能を完全には取り戻していない目をしきりにしばたたきながら体を丸めようと肩をひねって、手首に走った痛みに顔を歪めた。
聖服のカフスで隠れて見えなかったが、いっぱいに開かれた両の手は幅の広い手錠のような金具でがっちり固定され、両足に至ってはブーツの上からではあったが血液が流れなくなるのではないかというほどきつく締めつけられて、金属の平らな台の上に磔にされている。動かせるのは手首から先と頭ぐらいだったが、拘束に遊びがほとんどないために、それらを動かすことでもたらされる苦痛は抵抗の意思を殺ぐのに十分だった。
全身の力を抜いてため息をつくと、無防備に四肢を開いた自分の姿が霞みの取れた目に映った。真上の天井に据え付けられた大きな鏡の中の自分は、まな板の上に乗せられた魚のように何もできないくせに、不安というよりは傲慢ささえ見え隠れするふてくされた表情をしている。寝かされている台は温もりが移ることもなく氷のように冷たいまま体温を吸い取り続け、小刻みに震える唇が紫色になっているのが分かる。
ビリーは頭だけ傾けて辺りを見回した。壁いっぱいに用途不明の計器やらモニターやらキーボードやらが見て取れ、手術室か実験室のように感じられる。
見覚えのある雰囲気は、未だ醒め切っていない頭から連想ゲームのように記憶を引きずり出した。


「ソラリス人ってのは、なんつーか……独創性のねぇ民族だな」
敵地へ侵入した最初の感想がそれ? ビリーは眉をひそめたが、バルトは大真面目に続けた。
「だってさ、“教会”の地下にあった施設と同じような感じじゃん、ここ。目的も規模も全然違うだろうに、こうまで似通うの不思議だろ? ここの人間は皆こういう雰囲気が好きなんじゃねぇかって気がしてくるよ」
言いたいことは分からないでもないが、民族全体に拡大するのはいささか乱暴すぎやしないか――と、ソラリス生まれのビリーは口には出さないが心の中で少しだけ反論する。
僕は嫌いだから、こんな場所。
寒々しい色彩。動くものといえば金属張りの床と壁に揺れる照明の反射くらい。
規則正しく並んでいるから、同じ速度で歩き続ける限り同じようにしか動かない。

「若さんの言う通りかも知れねぇなぁ。上の街に行ったら、お前さんみたいな人間は暮らしていくのも辛いだろうぜ、きっと」
先頭を歩いていたジェサイアが振り返る。
「周りに合わせ、型に嵌ることが美徳。それでも型に嵌ってるつもりなんかなくて、自分は自由に生きてると思ってるんだからな。大量生産された歯車の一つだってことに気づかずに、気づこうともせずに。密閉された無菌室の中で」
「あんたはそれが嫌で地上に降りた、ってか? ……でも、地上の人間だってそれほど変わりゃしない。管理されてることなんか、ずっと知らずに生きてきたんだから」
目を伏せるバルトを見て、ジェサイアは肩をすくめた。
「だが、お前さんたちはそれを知って、行動を起こした。くびきから逃れるために。そうだろう?」
あの箱庭に暮らす人間の中に、同じことをする者が一体どれほどいようか。ジェサイアは自嘲気味に続ける。
「空気が動かねぇんだ、あそこは。何も知らずにいればある意味“幸福”に暮らせるだろうな。しかし一度知ってしまったら呼吸さえできねぇ、そんな場所なのさ。そのきっかけすら、あそこの人間にとっては違う星で起こっている出来事みてぇに遠い」

「自分が自分だって証が、必要ねぇどころか、初めから存在しねぇ。その方が生きていくのが簡単だっていうんだからな」

寒々しい色彩。動くものといえば蝋人形のような色素の薄い人間ばかり。
規則正しく、同じ速度で、歩き続ける。


「それにしても、ちょっと不思議じゃない?」
破壊したセキュリティブロックの残骸を眺めながら、ビリーは隣に立っていたジェサイアに聞くともなく声をかけた。
何がだ、と怪訝そうに聞き返してくる顔を見返すことはせず、つぶやくように続ける。
「ソラリスの中枢にしては警備が甘すぎる気がする。さっきからこのロボットくらいしか相手にしてないだろ?」
二人の間に後ろから顔を突っ込んだバルトが、ビリーの肩に無造作に手を置いた。
「平和ボケ、ってやつじゃねぇのか? 敵……つまり地上人やらシェバトの人間やらに侵入されたことなんかねぇんだろ? 何にせよ、助かるじゃねぇか。こっちには戦力にならねぇ奴もいるしなぁ」
「俺っちは情報屋として役に立つっすよ!」
飛び上がるハマーとは対照的に、ピンクの毛玉の方は無反応だ。彼女の剛胆さとバルトの思惑が外れたことに思わず小さく吹き出してしまったビリーは、慌てて咳払いをしてごまかしながらきつい表情を作った。
「本当に、ごくごくたまにだけど、君の楽天主義が羨ましくなるよ」
「何ぃ!? じゃあ何か、これだけ警備が手薄なのは裏があって、たとえば俺たちを誘い込んで生け捕りにしてどうこうしようだとか、そういう思惑があっちにあるとでも言いてぇのかよ? 俺たちを生かしといて、なんか奴らに得があるのか?」
「……そこまでは思わないけど。たとえばフェイたち三人が見つかっちゃって、警備は皆そっちに回ったとか」
「………」
バルトは口をつぐんだ。普段明るい彼の表情が翳ると、端正な顔立ちも手伝っていっそう深刻に見える。胸の底を冷たい風が吹き抜けていったような寒気がして、ビリーは小さく首を振った。
「……ごめん、楽天的に考えてみる」
「……そうしろ。あっちには先生が付いてるし、こっちの飲んだくれ親父よりいくらかましだろ」
肩をすくめるバルトに同意を込めた苦笑を返して、ビリーは胸のさざ波を鎮めようと深呼吸しながら後ずさったが、壁につこうとした手が片方だけ空を切り、傾きかけた体を慌てて立て直した。
「……?」

何もなかったように見えていた壁に突然穴が空いていて――今までに見た扉も隠してあるというほどではないにしろ壁とよく似ていて目立たなかったので、その点は特に変わっているわけではないが――奥に薄暗い小部屋が見える。片側の壁の半分を占めた煌々と明るいモニターを睨みつけていたジェサイアの眼差しが、こちらを一瞥した一瞬、凍りついたようだった。すぐに顔をそむけた父の表情が、悟り切ったような諦めの色へと変わったことまでは、ビリーには見えなかった。

「どうかしたの、親父……?」
ビリーはジェサイアの表情の変化はさほど気にも止めず部屋の中に入り、周囲を見回した。無数の小さな引き出しに書類が無造作に突っ込まれている。適当に引っ張り出して斜め読みするが、遺伝生物学の研究資料だということくらいしか理解できなかった。専門用語の乱舞に加え、ソラリス語特有の硬い言い回しが、ただでさえ違う星の言葉にも等しい専門的な内容に難解さを上塗りしている。周りの引き出しを改めて眺め、データベース内の情報の些細な補助に過ぎないであろう紙の資料の山を見て、推察される情報量に目眩がした。
「ここは……モニタリングルームかなんかか? ……どこ映してんだ?」
バルトの声が、書類に気を取られていたビリーを現実に引き戻した。背にしていた大きなモニターの方を振り向きながら流れるように目にした仲間たちの表情は皆一様に引きつっていて、知覚よりも浅い意識の表層に薄い不安を塗りつけた。
「……!」
薄暗さに慣れていた目に飛び込む光の量が急に増え、一瞬真っ白に飛んだ視界の中に、影が滲み出てくる。
人ならぬ異形の生物。頑丈そうな金属の檻に囚われていたのは、死霊だった。
その姿が急に霞む。他人事のように不思議がって首を傾げる自分を頭の隅に感じる。それは画像の乱れでも何でもなかった。体が、見ることを拒否しているのだ。視覚だけでなく五感が急激に遠のいて、ビリーは自分の肩を抱くように後ずさった。手にしていた書類の束が床に散乱するさまに意識が拡散するような感覚が重なるが、胃が下から押し上げられるような悪寒を手がかりにかろうじて繋ぎ止める。焦点の定まらない目に、モニターの映像が容赦なく流れ込み続けた。
霞んだイメージは、ヒトの形にしか見えなかった。

震える右手がホルスターに伸びていることに気づいて愕然とする。ビリーは朧に霞む感覚を必死で左手に集め、力いっぱい右手を押さえた。

「……ビリー!」
押し殺した声と、肩を強く掴まれる痛み。どちらが先だったのかは分からなかったが、それは闇の中に垂らされた救いの糸のように感じられた。ビリーは気力を振り絞ってその糸にしがみついた。
目の霞みがまず晴れて、五感が一気に戻ってくる。肩を掴んでいたバルトが、険しい顔で覗き込んでいる。モニターの前に立ってわずかに振り向いたジェサイアの心配そうな表情が続いて目に入った。
感覚を失っていたのはほんのわずかな間のことらしかった。バルトとジェサイアを除く仲間たちはビリーの異変に気づいた様子はなく、モニターに見入っていた。
「……大丈夫か?」
低い囁き声に心底安心したのが何となく後ろめたくて、混乱の淵から自分をすくい上げてくれたことに感謝しながらも、ビリーは平静を装ってバルトの手をそっけなく払った。
「……平気、何でもない」
画面が切り替わっていることを視界の端で確認してから、ジェサイアを押しのけるようにしてモニターの前に陣取る。
いくつもの檻の中に押し込められているのは、亜人たちだった。一つの檻に入れられている人数にも外見にも規則性は見出せない。人種のるつぼといった感じのタムズでもこれほど様々な亜人を見ることはできないだろう。
「……親父、彼らは? これはどこなの?」
「……おそらく、ソイレントシステムだ」
「ソイレントシステム?」
聞き慣れない言葉にその表情を確かめようとしたとき、ジェサイアの手がいささか乱暴に肩に置かれた。
その横顔は、彼らしくもなく感情を押さえようとするように銀色の眉が神経質に震えている他は普段と変わらなかった。気づいたのはすぐ横にいたビリーだけだっただろう。
ビリーは普段なら邪険に振り払う父の手の温度をそっと噛みしめた。
「M計画の根幹をなすシステムさ。表向きは民生用から軍事用まで幅広い用途に使われる薬品やら食品やらの開発と製造のための施設ってことになってるが、その実は遺伝子学を主とした研究施設だ。詳しいことは俺も把握してねぇが、要するに生き物の設計図……DNAを好き放題いじくって造り変えては喜んでる連中の巣窟ってこったな。亜人も、元はといえば大昔ここで作られたのさ。今映ってるのは地上から集められた人たちかもしれねぇが」
ジェサイアは深く息をつくとビリーの肩に置いていた手を下ろし、モニターに背を向けてコンソールに浅く腰かけた。
「被験体……ってやつか。何とか助けられねぇかな」
「ここでモニターしてるってことはそう離れた場所じゃねぇだろうが……な」
バルトの言葉が珍しく断定形でないのは彼に限って不安の表れではないはずで、その提案にジェサイアがはっきりとは賛成も反対もしないのは、バルトに対する気遣いやその提案がそもそもの目的の遂行に及ぼす影響への懸念の表れではないはずだった。
居たたまれなくなったビリーはそっと後ずさると、足早に部屋の外へ出た。強い照明が床と壁に散って瞼を刺す。それほど広くない通路は合わせ鏡のように互いに乱反射を繰り返して、その果てを光に紛れさせていた。
明るいことが怖いと感じたのは初めてだった。
反射的に目を閉じると、瞼の裏で黒い稲妻のような光が暴れ回った。

「ビリー」
思わず声のした方を見上げてしまって、照明を背負った眩しいハニーブロンドに目が眩む。ビリーは不自然なほど思いきり顔をそむけ、体ごと向きを変えた。
今、何て顔をしていたんだろう、僕。
きっと、泣きそうな顔。すがるような顔。助けを求めるような顔。
あまりにも恥ずかしくて、情けなくて、何事もなかったかのように装うこともできない自分がもどかしい。
「……何でもないよ……早く、出発しよう」
どうやら絞り出した声も掠れていて、情けない自分を張り倒してやりたくなった。出発しようなんて言っておいて、足は床に張り付いたまま動かない。気ばかりが焦る。
「………」
何も言わずに横をすり抜けていった背中を見てようやく安堵するものの、同時にそんな自分に嫌悪を覚えて、ビリーは再び目を伏せた。
誰かが先を歩いてくれないと、自分は進むこともできない。
立ち向かわなければならないのに。一人で。
泣きつくわけにも、すがるわけにも、助けを求めるわけにもいかないのに。
伏せた視界からバルトの足が出ていかないように歩き出しながら、自分の腕を痛いほど掴む。

消せずに残ったままの楔がひびを広げて、今立っている場所が崩れてなくなってしまうかもしれない。
進むにつれ大きくなるのはそんな不安だけだとしても、
君が歩いた後なら、安心して歩ける。

そんな自分も、脱ぎ捨てなければ。

暗示のように、そう言い聞かせる。


硝煙の臭い。嗅ぎ慣れた戦いの臭い。ビリーは片足を軸にして体を百八十度反転させた。広いドームのような空間に銃声が反響する。別の角度から足元に撃ち込まれた弾丸を軽業師のように宙返りをして避けると、ジェサイアとぶつかるように背中合わせになった。
「だから言ったろ、こんな広いところやめた方がいいって!」
「だーっ、今更ぐだぐだ言うんじゃねぇ! どうせ他に道はなかったんだよっ!」
壁のぐるりにある床から五シャールばかりの高さの足場にソラリス兵がずらりと並んでいる。辺りを見回そうとして首を半分も回さないうちに、彼らの銃が一斉に火を吹けば僕らを蜂の巣にするのはたやすいのに何故そうしないのだろう、と妙に冷静な考えが頭を掠める。気を取り直して背後を確認しようと身を翻したとき、一発の銃声と悲鳴が響いた。
たまらなく不快な悪寒が背筋を駆け上がる。
「……バルト!」
床に膝をついたバルトに駆け寄ろうとしたビリーの動きを、一行の入ってきた扉からなだれ込んできたソラリス兵の銃が制した。
「動くな!」
「武器を捨てろ!」
ソラリス語のお決まりの台詞がいくつも飛んでくる。黒光りする無数の銃口は、針の束を向けられているような不快な圧迫感を投射した。ビリーは両手のリボルバーを床に放りながら、兵士たちを睨み返した。
「……治療を、させろ」
「よせ、ビリー……足を撃たれただけだ。どうってことねぇ」
ビリーの言葉はソラリス語だったので意味は分からなかっただろうが、バルトがビリーを制する。真っ白なハイブーツに、赤黒い染みがじわじわと広がっていく。
「仲間を止められるようになったのね。少しは成長したのかしら」
兵士たちの壁の向こうから唐突に投げかけられた地上の言葉は、落ち着いた女性の声だった。その声を合図に左右に分かれた兵士たちの間から、位の高い仕官であることを表す制服に身を包んだ女性が、硬い靴音を響かせながら歩み出てくる。深いインディゴの髪と瞳に縁取られて、白い肌がいっそう白く美しく見えた。
「久しぶりね、ファティマの坊や」
「……あんた、確かラムサスと一緒にいた……」
女性――ミァンは微笑だけバルトに返すと、ジェサイアに向き直った。
「元気そうね。あなたが家族を連れて地上に降りて以来かしら、ジェサイア」
「……お前さんは相変わらず美人だな、ミァン。お前さんがいるってことは、カールは……?」
「彼はここにはいないわ。せっかくビリーともギアのモニター越しでなくこうして顔を合わせられたのだし、四人で思い出話に花を咲かせられたら良かったのだけれど、それはまたの機会ね」
突然名前を呼ばれて驚いたビリーは慌ててミァンの顔を見返したが、既に体の向きを変えた彼女の視線はその背後に投げられていた。
空気が変わったような気がしたのは、周りを取り囲んでいる兵士たちの緊張が増したせいだろうか。ミァンが割ってきたその空間を悠然と歩いてきたのは、象牙色の髪を背中まで伸ばした男だった。額を戒める幅広の金環が目を引く。
「思い出話……か。奴にそんな器用な真似ができるとは思えないがな」
切れ長の瞳は光を全て吸い取っているかのように昏く、整った顔には感情の欠片も感じられない。穏やかだが抑揚のまるでない口調の奥から伝わってくる研ぎ澄まされた氷の刃のような威圧感が肌を切る。
「……カレルレン。んな大物が直々に出てくるたぁな」
「誰だよ?」
つぶやくジェサイアに、バルトがいかにもうんざりといった表情で聞き返すが、首筋に汗の雫が滴って見えるのは傷が痛むためばかりではないだろう。
「この国の実質的最高権力者さ。最高意思決定機関であるガゼル法院と同等以上の権限を持つ“護民監”。ソイレントシステムの責任者でもある。……そうだったな?」
青年と呼んでも差し支えのない容貌に本来ならばまるでそぐわないはずの肩書きをジェサイアが並べても、何の不自然も感じなかった。それだけの存在感、隷属さえ強いられる圧倒的な統率力を、目の前の男――カレルレンは感じさせた。
「私が何者であれ、お前たちにはさしたる影響はあるまい。戦えない者と、足を負傷して動けない者を抱え、銃を持った敵の兵士に完全に包囲されている状況は変わらないのだからな。……ここまでの潜入、ご苦労だった。こちらから出向く手間が省けたよ」
カレルレンは口元を緩め、皮肉っぽくつぶやいた。ただし“皮肉っぽい”のは言葉の内容だけであって、緩んだ口元にしろそれが満足を表しているのか侮蔑や嘲りを表しているのかはまるで伝わってこない。表情とはそもそも感情を表すもののはずだが、このように感情の伴わない表情の変化を見るのは初めてだった。言い知れぬ恐怖を感じて、ビリーはかすかに身じろぎをした。
「ちっ……んで、その護民監閣下がしがない一侵入者の俺たちに何の用だよ? 国賓として歓迎でもしてくれるってのか?」
バルトの悪態に、カレルレンは眉一つ動かさず、視線だけをそちらに投げる。
「残念だが、そうもいかない。……しかし、お前たちはひとまずは大事な餌であり、依り代だ」
「彼らにとっては国賓以上に大切な客人かもしれないわね」
妖艶に微笑むミァンに、だろうな、と肩をすくめたとき、その表情に一瞬だけ嘲笑にも似たものが見えた。誰一人として二人の会話の意味を問うこともできずにいたのはほんのわずかな時間で、口火を切ったのはジェサイアだった。

「道理でさっさと撃たねぇわけだ。王手をかけるにゃ、好都合だな」
一分の無駄もないその動作はおそらく誰にも見切ることはできなかっただろうが、ほんの数歩の距離からの弾丸の方が速かった。

「親父っ!!」
短いうめき声を上げて倒れ、癲癇の発作のように痙攣するジェサイアの体から何本ものワイヤーが伸びて、周りを取り囲んだ兵士たちの構える銃口に繋がっている。引きちぎった電線から火花が飛び散るような嫌な音が止むと、途端に弛緩した体は死んだように動きを止めた。
「余計なことはやめておいた方が賢明だ。……言い忘れたが、必要なのはお前たち三人だけだよ。……ひとまずは、な」
カレルレンが顎でそっけなく指したのは、ビリーとバルト、リコの三人だった。バルトとリコが顔を見合わせるが、ビリーはカレルレンから一瞬も視線を外さなかった。
頭の中は氷の理性と暴力的な衝動で真っ二つに割れている。葛藤するまでもなく、今は相手の言葉に従うしかないと普段なら結論を出すはずの理性は衝動の炎にあおられてぐらぐら揺れ、あろうことか衝動に協力する方向へ傾き始める。
彼は僕が必要だと言った。下手なことはできないはずだ。
初めから撃つつもりなら、出遅れることはない。
自分のすべき一連の動作を頭の中のスクリーンに紡ぎ出した理性の背中を、視界の端で力なく倒れた父の姿に油を注がれた衝動が押した。

イメージした動作を正確にトレースできたのは、引き金を引いた瞬間までだった。炎の中に放り込まれたような熱と、体中を鞭で打たれるような痛み。悲鳴を上げたかどうかは分からない。稲妻が走った視界がぐるりと回り、床が近づいてくるのがやけにゆっくりと見えた。
水面にでも倒れ込んだように衝撃がないのが不思議だったが、いつの間にか辺りは真の闇で、自分の姿さえ見えなかった。

「……器とて、代わりはある」


「……っ!」
記憶が現実に追いついて、あの瞬間をなぞるように全身の筋肉が大きく痙攣する。拘束に阻まれた反動で台に後頭部をぶつけ、あのときと同じ火花が瞼の裏で散った。
ようやく理解した敵の手に落ちたという事実が辺りの空気さえも棘に変えて、体中を刺し貫かれているように感じる。相変わらず身動き一つ取れないまま、心臓ばかりが急かすように激しく脈打って、ビリーは泣きそうになりながら身悶えた。こんなことならずっと眠っていればよかったという不謹慎な考えを頭の隅に押し込めながら、浮かぶはずもない名案を必死で追いかける。無駄だと分かっていながら、先ほどじっくり見渡したばかりの部屋の中に、混乱したままの頭の中に、希望の欠片を探した。
「おや、もう目を覚ましていましたか。外しておけばよかったですね」
頭の上から突然降ってきた聞き覚えのある声に、ビリーは呼吸が止まるかというほど驚いた。そばの端末から電子音がした一瞬後、手首と足首の圧迫感が唐突に消えて、声の主を確かめようと必死に反らせていた体が台から跳ね上がり、危うく転げ落ちそうになりながらもどうやら体勢を整えて飛び起きる。
「……シタンさん……!」
端末の前で振り返って微笑んだシタンは、所狭しと並べられた様々な機器の間を縫うようにビリーに近づくと、いたわるようにその手を取った。
「気分はどうです? ビリー。ああ、やはり跡がついてしまいましたね……すみません、痛かったでしょう」
「……大丈夫です。すぐ治りますから」
馴染んだ人間の姿と声に緊張が一気に解けて思わずため息をついてしまったが、頭の隅でちょっと待てと警告の声が上がる。ビリーは自分の手をさりげなく引き込みながら、シタンをそっと見上げた。
「シタンさん……ここは? あなたはどうやってここへ?」
シタンは相変わらず微笑んでいたが、漆黒の瞳の奥からその感情は読み取れなかった。普段からそういう人物だと思ってはいたが、状況が状況だけに寒気すら覚える。落ち着きを取り戻していた心臓が再び早鐘を打ち始めた。
「あなたがカレルレンを撃つとは思いませんでしたよ。先輩は嬉しそうでしたけれどね」
「……!?」
微笑したままの口から飛び出した突拍子もない言葉に、寒気が容赦なく濃度を増して体を包み込む。ビリーは台の上で後ずさりながらシタンをじっと睨み返した。不安定な猜疑心に視線が震えながらも、ホルスターに戻されていたリボルバーの重さを確かめ、それを抜く動きをほとんど無意識にシミュレーションする。
「何故、あなたがそれを……? 親父は!? 皆は……!?」
「……ビリー、落ち着いてください。先輩も皆も、安全な場所にいます」
シタンの両手は自然な形で脇に投げ出されたまま動かなかったが、安心材料にはならなかった。動いたと気づいたときには遅いのだから。たとえここでリボルバーを突きつけて両手を上げさせたとしても。イニシアティブを取れるはずがないという諦めはきっと瞳に現れていたのだろう。シタンの表情に、わずかに困ったような、それでいてほっとしたような色が差す。
「あなたをこんなに怖がらせたことが先輩にばれたら、問答無用で撃ち殺されてしまいそうですね」
ようやく戻ってきた情感のこもった声に、ふっと肩の力が抜けた。ほとんど条件反射で飛び出しそうになったジェサイアへの悪態が、逆に警戒心の端を溶かす。その瞬間を見逃さなかったシタンは一歩前に出ると、少し話しましょうか、と台のそばにあった椅子に腰掛けた。
「驚かせてすみません。撃つのは勘弁してくださいね? あなた方親子は、どうにも手が早くて」
「……手が早いのは親父だけですよ。いろんな意味で」
冗談めかした言葉にどうやら調子を合わせた返答ができて、少しずつ気がほぐれていく。ビリーは軽く息をつきながら、それにしても、と続けた。
「それにしても?」
「あなたが言うと、誘拐犯の台詞みたいです。“安全な場所にいる”って」
「厳しいですね。まあ、否定はしませんけれども」
自嘲するように肩をすくめるシタンの表情は、真意を読ませない普段の仮面を貼りつけたようでいて、所々にほころびを感じさせた。それすらも計算ずくなのかどうなのか、判断がつかない自分の未熟さをわずかに呪いつつも、垣間見えた隙に不思議と肝が据わる。
「……駆け引きはやめてくれませんか。あなたを楽しませる自信はないから」
「………」
「でも、あなたが何らかの形でソラリスと繋がっていて、程度はどうあれ僕たちを騙していたことくらいは見当がつきます。話す気があるのなら、はっきり話してください。そうでないのなら、せめて僕たちをどうする気なのか教えてください」
一息に喋ったビリーを見返して、眼鏡の奥で意外そうに瞬いた漆黒の瞳に、悪戯っぽい光が宿る。
「十分楽しませてもらっていますよ、ビリー」
「………」
「いえ、失礼。今は駆け引きだとかそんなつもりはないんですよ。……これはもう、性分といいますか」
「……嫌な人ですね」
開き直りといえばその通りなのだが、繕った表面を一枚剥げばそれは恐怖を裏返した都合のいい曲解。
裏切るはずがない。裏切られたらどうすればいいの。お願い、裏切らないで。柔らかな言葉のひとつひとつを拾い出してすがりついては哀願する自分を理性の後ろに追いやりながら、眉の震えを必死で押さえる。
「よく言われます。……その嫌な人がさらに嫌になるような話ですが、お話しましょうか」
その一瞬、シタンの瞳から一切の光が消えたように見えた。無理やりに感情を押し殺したように感じたのは、気のせいだろうか。今までに出会った誰よりも、それは巧みだったけれども。そんな気がした。
それは、そう感じる隙は、感情のほころびなのだろうか。
「私の名はヒュウガ・リクドウ。ソラリス守護天使です」
「……守護……天、使……?」
「天帝により任命された特務執行官、……まあ、早い話が偉い人ってことです」
自虐にも聞こえる口ぶりは、罪悪感の裏返しなのだろうか。
「“アニムス”となりうる人間の探索と選別、そしてソラリスへの誘導。それが、私に与えられた任務でした」
「……任務……アニムス、って?」
「法院の老人たちは、五百年前の大戦のときにその肉体を失っています。それは『教会』のデータベースで見たでしょう? アニムスとは、彼らの依り代……新たな肉体のことを指します。失った肉体を取り戻し、復活することが、五百年来の彼らの悲願なのですよ」
「依り代……僕らが……? それじゃ……」
「彼らにとってのあなた方の――私も含め、ですが――存在意義は、容れ物……ただそれとしてのみ。かの老人たちにとっては、地上の人間はおろか純粋なソラリス人すらも、自らのパーツに過ぎない。全ての人間が彼らのために生かされているのです。ゲブラーとしてアヴェを支配し、『教会』として技術を管理し、キスレブにも深く根を張る。地上の人間は、ソラリスという国の存在すら知らない」
シタンの口調は淡々としていたが、その顔を穴が開くほど睨みつけていたビリーは、その口元がかすかに震えたのを見逃さなかった。
「……あなたは何故ソラリスを離れようと思ったんですか?」
「……おや、まだ何も言っていないのに信用してくれるんですか? あなたの思慮深さはユグドラシルでも一、二位を争うと思っていましたが」
「一位は間違いなくあなたでしょうね。……信用する、というより、信用したい、といった方が近いかもしれません。こんな敵地のど真ん中で、最も敵に回したくない相手が敵に回るなんて、考えたくもない」
表情筋にこれ以上ないほど力を込めながらも、自分の表情のほころびもきっと相手には伝わってしまっているのだろう、とふと思う。駆け引きにおいては致命的な失敗だが、それを危惧していない自分の感覚を信じたかった。深々とついてみせたため息は、駆け引きの余地と心の隅に引っかかる警戒心とを残した虚勢。
「……皮肉でなかったら、買い被りもいいところです。思慮深いなんて。……人を見る目も、思いきり否定されたばかりだし。あまり考え込まないで引き金を引いた方がいいのかな」
「あなたがそう判断するのなら、そうしてください」
「それも皮肉、ですよね。でなかったら、張り合いがなさすぎる。あなたらしくない」
シタンは目をぱちくりさせた後、いかにも愉快そうにくすくす笑い出した。それこそ皮肉じみた含みを持たせていたとはいえ大真面目に話していたビリーにしてみれば、笑われることは不本意以外のなにものでもない。肩透かしを食らった不満も込めて眉根を寄せてみせると、シタンは肩を揺らすのを止めて軽く頭を下げた。
「いや、すみません。お父上そっくりだなと思いまして」
「……何がですか」
さらに不本意なことを言われて、ビリーの眉間の皺は深くなる。シタンは悪びれる風もなく、柔らかな微笑をもってビリーを見返した。
「シェバトを発つとき、先輩に言われたんです。あちら側に荷担するのなら背後からでも撃つ、と。そのときはよろしくお願いしますと答えたら、あなたと同じことをおっしゃいましたよ。張り合いのねぇ、とね」
「………」
「どうやら、撃たれずに済んでいます」
ビリーは肩の力を抜いて深く息をつき、口元を緩めた。波が引くように、残っていた警戒心が遠ざかっていく。
「親父は、知っていたんですね。あなたのことを」
「先輩が果たせなかった目的を果たした、それだけですよ」
世渡りだけは昔から得意で。シタンは自嘲気味につぶやいた。
「……シグルド兄ちゃんは?」
「彼には何も話していません。若くんやあなたへの愛情が、割り切るには強すぎるから。……ただ、昔から勘のよすぎる人で。隠し事がばれなかったためしはないのですが」
「嘘ばっかり。シグルド兄ちゃんが勘がいいっていうのは間違いないけど、あなたは一枚も二枚も上手でしょう」
「私のような人間には、それは最上の褒め言葉ですよ」
自虐を含んだ皮肉には間違いないのだろうが、言葉通りの感情もありそうだ。ビリーが肩をすくめると、シタンは少し眩しそうな微笑を返した。
「それにしても大きくなりましたね、ビリー。シグルドに抱っこされてはしゃいでいた頃のあなたとは、別人のようですよ」
「……十数年前の話でしょう? そりゃ、大きくもなりますよ」
はっきりとは記憶にない昔の自分の話などただでさえ照れくさいものだが、タイミングまで唐突とあってはもはやどういう顔をしていいのか分からない。真意を測りかねて眉をひそめるビリーを見つめる表情に、懐旧に混じってかすかな悲哀が複雑に絡んだそのとき、シタンが口を開いた。
「あのときも、別人になったようでした。……シグルドが地上に降りた、次の日」
「……!」
「先輩のお宅を訪ねる用があって、あなたにも会ったんです。人見知りは激しかったけれど、懐いた人間には甘えん坊だったあなたが――あ、シグルドほどではありませんでしたが、私とも仲良くしてくれていたんですよ。そんなあなたが、私が声をかけても寄ってすらこなかった。一人でじっと椅子に座って、宙を睨んでいました。目を真っ赤に泣き腫らして、それでも涙はひとしずくもこぼさずに」
三歳の子供には見えなかった、と付け加えるシタンの瞳は、悲哀の色が濃くなっていた。
「……今のあなたは、あのときと同じ瞳をしているように見えます」
「え……?」
「相手を責める感情を殺して、代わりに自分を責めている。涙をこらえるのが上手くなっただけだ。違いますか?」
シタンの言葉が突然隠していた刃を剥き出しにしたように感じて、ビリーは思わず身がすくんだ。そんなことない、と力いっぱい叩きつけようとした否定の言葉を、不快感ごと喉の奥へ飲み込み、無表情を顔に貼りつける。
泣き出しそうになったときの不快感。
「……利いた風なこと言わないで。僕がまだ立ち直ってないって言いたいんですか?」
シタンは怯むどころか、なだめるように表情を緩める。瞳の奥まで覗き込む余裕は、そのときのビリーにはなかった。
「ほら、また感情を殺している」
「………」
「そうやって感情を殺す必要があるのはね、ビリー。相手と駆け引きをするときだけです。勝たなければならないときだけです。あなたは誰と駆け引きをしようというのですか? 誰に勝とうというのですか?」
歯を軋むほど食いしばっているビリーの強い視線を受け止めながら、シタンは諭すように淡々と続けた。
「足元が揺らぐことも、崩れることもあるかもしれない。ただ、それを全て内側に抱え込んでどうなるというのです。自分だけで解決するしかないのだと、何故そう決めつけるのです。自分にも非があるから、他人に心配をかけたくないから、弱みを見せたくないから、言い分は色々あるでしょう。しかし、心の動きを全て隠すことなどできはしないのだから、それは不毛なだけの自虐でしかないのですよ。あなたといい、フェイといい……」
「……フェイ?」
思わぬ名前に、ビリーの顎が緩む。シタンは一瞬口をつぐんだ後、処置なしといわんばかりに肩をすくめた。
「……彼もあなたも、優しすぎるんです。でもね、自虐が他人への気遣いになどならないということだけは分かってほしい。あなた自身だけでなく、近しい人間の心にも、傷を残すだけなのだから。……まあ、私の言葉も気遣いなどでなく一種の自己満足なのかもしれませんが」
「……シタンさん……」
「平たく言えば、素直になれ、ってことですよ」
「………」
表情筋のこわばりが取れていくのに合わせて、ビリーは膝に頭がつきそうなほど背を丸め、顔を伏せた。涙腺が切れないよう必死で目頭に力を込めていると、不意に腹の底からおかしさがこみ上げてきて、小さく吹き出す。
「ふふっ……素直になれ、なんてあなたが言っても説得力ないです」
「おや、それは心外ですね。私は思ったことをちゃんと口に出しますよ? 言葉の選び方が少々特殊なだけで」
「相手が真意を理解できなかったら、素直じゃないのと一緒じゃないですか。……でも……」
「でも?」
「……ありがとう、ございます」
「その調子です」
背中を軽く叩かれてビリーが顔を上げると、かすかな風が髪を揺らした。音も立てずに開いていた扉に手をついて、シタンがこちらを振り返っている。
「では、あなたがもう少し素直になれる人のところへ行きましょうか」
「……はい?」
「さあ、行きますよ」
さっさと部屋を出ていってしまったシタンの後を慌てて追ったビリーの瞼を、相変わらず容赦ない強さの照明が刺す。狭まった視界の中でシタンがこちらを振り返るが、表情までは見えなかった。
「私が何故ソラリスに背こうと思ったか、知りたがっていましたね」
「え……はい」
ビリーは目をこすったが、視界が晴れたときにはシタンは既に正面に向き直っていた。当然表情までは窺い知れないが、声色は穏やかだった。
「もっともらしい理由はいくらでもあるんですが、一番大きな原因となったのは、おそらくシグルドの存在です」
「シグルド兄ちゃんの?」
「ええ。彼がどうやってソラリスにやってきたか、聞きましたか?」
「……被検体として、拉致されてきたって」
「その通りです」
シタンが歩調をわずかに落としたので、ビリーは横に並んでその顔をそっと見上げた。
「被検体というからには相当ひどい扱いを受けていましてね。カール……ラムサスがその身柄を保護した頃には、廃人も同然でした。連日に渡る過度の薬物投与で精神まで蝕まれて、自分が誰なのかも分からなくなってしまっていたんです」
「………」
「しかし、治療のためにあなたの家に身を寄せてから、シグルドの状態はどんどん良くなっていきました。あなたたち一家が、帰る家もその場所を懐かしむ心も全て奪われた彼にとっての新たなよりどころになった。私たち周りの人間はそれを喜んだし、その方が彼にとって幸せなのだと思いました」
当時の私たちには彼の身元を知る術もありませんでしたから、と付け加えて、軽く息をつく。
二人がかき分ける他は冷たく固まったままの空気は、声をよく通した。
「……ある日、アヴェでのクーデターの情報が入ってきました。シャーカーンがゲブラーの協力を得て起こしたとはいえ、ユーゲントでは噂程度に流れただけでしたが……その日から、シグルドは何かに憑かれたようにその情報を集め始めたんです。理由を尋ねる私たちに、彼は答えました。誰かが自分を待っているんだと。自分の生まれた国を、仕える主を、家族を――案じる心だけで、彼は自分を戒めたままだった鎖を引きちぎったんです」
シタンは次第に歩調を緩めて曲がり角にあった扉の前で立ち止まると、壁とほとんど同化していたキーパッドの蓋を開けながらビリーに向き直った。
「人の心は時にとても弱いけれども、自分の居場所を、自分の世界を、全て覆す力にもなりうる。私は彼からそう学びました。何をしたい、どうありたいと願うとき、心の中にはきっと自分以外の誰かがいて、その人たちのためにこそ、心は強くなれるのだと思います。彼が体現したようにね」
「……自分、以外の……」
「大切な人がすぐに思い浮かぶなら、足元の揺らぎもおのずと消えていくはずですよ」
シタンの指がキーパッドの上で踊って、扉がレールの上を滑るかすかな音がした。視界の端に派手な赤い色が飛び込んできて、反射的にそちらを向く。
「……バルト!」
先程までいたのと同じような部屋、同じような台の上に、バルトが磔にされていた。目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
「つい長々と説教をしてしまいましたし、とうに起きているかと思いましたが……まあ、よしとしますか」
「え?」
慌てて台に駆け寄ると、深々と寝入っているらしくのんきそうな寝息が聞こえた。ビリーは無意識に力を込めていた肩を落として、深々とため息をついた。
「何だ、寝てるだけか……」
シタンが台のそばの端末を操作する。拘束を解かれた四肢がだらりと開いて、実に気分がよさそうだ。
「ぐっすり寝ているようですねぇ」
「もう起きててもおかしくないわけでしょう? のんきな奴」
「敵地のただ中でこそ、余裕は必要ですよ」
シタンはビリーの横をすり抜けて戸口に立つと、肩越しにビリーを振り返った。
「ビリー、私はちょっとやることがあるので、しばらく席を外します。この部屋にいれば安全ですから、少しの間若くんと二人で待っていてもらえますか?」
「えっ? ちょっ……」
二人で、という言葉に過剰に反応しそうになって、慌てて口をつぐむ。代わりの言葉を考えながら、ビリーは扉のそばまでシタンに追いすがった。
「どこへ行くんですか? だったらこのバカを起こして、一緒に……」
「ソラリス守護天使として、最後の仕事をしてきます」
「……シタンさん」
シタンはにっこり微笑むと、ビリーの肩を叩いた。その表情には、今まで必ずまとわりついていた影は感じられなかった。
「一時間は待たせませんから、ここにいてください」
食い下がる暇もなく、鼻先で扉が閉まった。
訪れた静けさに耳が慣れると、背後からすーすー寝息が聞こえてくる。余裕とかそういう次元じゃないだろう、と肩をすくめながら振り返ってバルトを見たビリーは、はっとしてそのそばに駆け寄った。
銃弾を受けたはずの足には、傷跡はおろか、血の染みすらも見当たらない。シタンの仕業だろうとすぐに見当はついたが、撃たれた事実そのものを抹消するかのような完璧なまでの修復ぶりには、ソラリスの技術への畏怖と同時に薄ら寒さを感じないでもなかった。
とはいえ心配が一つ解消されたことは事実で、少し心が軽くなる。そのせいか、人恋しさにも似た悪戯心がむくむくと湧いてきて、ビリーはバルトの横たわっている台の端に浅く腰かけると、その頬を指先で突っついた。
普段だったらあえて接触を図るようなことはせずに起きるのを黙って待っていただろうと思うと、我ながら不思議な気がする。なんだか、口を動かしていたい。誰かと言葉を交わしたい。
こんな心理状態は珍しい、と取りとめもなく分析しながら、起きる様子のないバルトの形のいい鼻を思い切りつまみ上げる。
「……ふが……」
バルトはわずかに眉をしかめたものの、すぐに口呼吸に切り替えた様子で、安眠に支障はないようだ。眠りの浅いたちからすると、羨ましいことこの上ない。ビリーは唇を尖らせながら、もう片方の手でバルトの口を塞いでやった。
「ん……むぐ……っぷはっ!!」
呼吸を完全に封じられ、ようやくバルトは口を塞いでいたビリーの手首を引っつかんで飛び起きた。何か怒鳴ろうと息を吸い込んだままふと口をつぐんで辺りを見回し、ビリーの顔をまじまじと見つめる。
「やっと起きた。君、寝すぎ」
「……寝すぎ、って……あれ? 俺どうしてたんだ? ていうか、ここどこだよ?」
「……あー、いろいろあって。シタンさんが来たら聞いて」
「……そっか」
「やけにあっさりだね……もっと、他の皆は? とか聞くんじゃない、普通」
「お前がそれだけ落ち着いてるんだから、心配するような事態にはなってねぇってことだろ」
「まぁ……そうだけど」
直情的で短気で、考えるより先に体が動くタイプのくせに、時折ひどく冷静な答えを返してくることがある。感心半分苦々しさ半分で、ただ普段のように突っかかる気にもなれず少し眩しそうに見返すと、バルトは掴んだままだったビリーの手首をせっかちに引っ張った。
「お前は? 平気なのか、体」
肩を引き寄せて、ぱたぱたとはたくように体中を探る。ビリーはバルトの胸に手を突っ張って押しのけ、さも迷惑だといわんばかりに眉をしかめてみせた。
「何ともないから、放してよ」
「火傷とかしなかったか? もろに喰らっただろ、スタンガン」
「君と同じで、治療してもらったんだと思うよ。そうでなくても治せるから、平気」
「分かってるよ、そんなこと」
突然の大きな声に驚いてバルトの顔を見返すと、紺碧の瞳が強い光を湛えてまっすぐにこちらを見据えている。ビリーが思わず身をすくませたことに気づいたのか、バルトはビリーの肩と手首を掴んでいた手を離して、顔をそむけた。
「……分かってるよ。ちょっと怪我したってお前なら平気だし、心配する必要なんかねぇってことくらい。……だけど」
「……だけど?」
バルトは口をもごもごさせていたが、ビリーをちらりと一瞥した後再びそっぽを向いて、ぶっきらぼうにつぶやいた。
「……心配なもんは、心配なんだよ。大きなお世話だって分かってる、でも、……」
言葉を探すように黙り込んだ後、くそっ、と小さく吐き捨てたのは、再びビリーの方を一瞬だけ見返してから。
咎めているわけでも、なじっているわけでも、責めているわけでもない。飾りのない言葉が、温かいしずくのようにビリーの胸を打った。
目の裏が熱を帯びる。
「……ごめん……なさい」
バルトが驚いたようにこちらに向き直って初めて、ビリーはその言葉を心の中だけでなく声にして言ったことに気づく。そんな言葉を自分が、それもバルトを相手に口にしたことに少なからず戸惑いを覚えつつも、次の言葉が胸を内側から突き破るように口をついた。
「……僕、そんなに心許ないかな……?」
「……ビリー」
バルトは膝をついてビリーのそばに寄ると、その顔を覗き込んだ。伏せていた視界の端からバルトの手が見えなくなったかと思うと急に頭上から影が差して、ビリーは思わず肩をすくめて目をつぶったが、その手はビリーの前髪をそっとかき分けた。
「ああ、心許ねぇな」
「………」
「……気ぃ悪くすんなよな。弱っちそうとか、そんなんじゃねぇんだ。なんて言うか……強がりすぎてるって言うか、さ。そうやって自分で全部治して平気そうにしてるけど、マントの下は傷だらけなんじゃねぇかって、隠してるだけなんじゃねぇかって、無性にそんな気がして」
突き上げるような感情は後から後からあふれ出てくるのに、喉がつまって黙ったままのビリーをしばらく見つめていたバルトは、悪戯っぽく微笑みながらビリーの頬を突っついた。
「なんだ、そんな顔もできんじゃん」
「……そんな顔……?」
「泣きそうな顔」
普段ならありったけの語彙を総動員した悪態を機関銃のようにぶつけていたかもしれなかったが、そのときのビリーには言葉をつなぐことすらできなかった。視界が霞んで、温かいものが頬を伝うのが分かる。
いざ感情を押さえ込むのをやめてみると、喉の奥にずっと小骨のように引っかかっていた不快感は嘘のように消えていた。悔しくもなかった。切なくもなかった。ただ、こみ上げる感情を言葉にできないことだけがもどかしくて、背を丸める。
「なっ……なんだよ、ほんとに泣くこと……」
バルトが慌てたように顔を覗き込んできたので、ビリーは涙をぬぐおうともせずに、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「……そんな顔も、初めて見たな」
当たり前だろ、人前で泣いたことなんかないんだから。まして、泣きながら笑ったことなんて。
「笑うか泣くか、どっちかにしろよ……変な奴」
変な奴、などと言われては何か反論をしたいところだが、喉から漏れるのは嗚咽ばかりで、相変わらず声にならない。代わりに、ビリーは拳を固めてバルトの胸を叩いた。そのまま俯いて額をぶつけると、頭をまるで犬にするように無造作に撫で回されて、抱え込まれる。
暖かい。
頭上で軽いため息が聞こえた。
「……ほっとした。……初めっから、そうやってりゃいいんだよ。泣きたいときは思いっきり泣いて、笑いたいときは思いっきり笑えばいい」
「……君みたいに?」
ビリーは涙声を絞り出した。
先ほどのシタンの言葉の意味がようやく分かったような気がする。
「そうそう。全面的に俺を見習え」
「……そんなことしたら、シグルド兄ちゃんの仕事が二倍になっちゃうだろ。過労で倒れちゃうよ」
「なんだよ、それ! 別に無茶するとことか見習えって言ってるわけじゃ……って、あれ?」
「自覚……あるんだね」
「……俺は何も言ってねぇぞ。無茶なんかしてねぇし、シグに迷惑も……かけ……」
ぶんぶん、と首を振る気配がして、ビリーの頭を抱え込む腕の力が増した。
「あー、畜生! やっと素直になったかと思えば、相変わらず可愛くねぇ奴だな」
「……見習うよ」
「あ?」
「君のこと、見習う」
「……おう」
顔を上げたビリーは濡れた頬を無造作に拭う骨ばった温かい指にすがりついて、囁くように、しかしはっきりと口にした。
「ありがとう」

言わなければならない機会が今まで幾度もあったのに、胸の奥に押し込めたままついぞ口にしたことのなかった言葉は、案じていたような引け目も、悔しさも引きずり出すことはなかった。
代わりに手に入れたのは、甘酸っぱさを孕む照れ臭さと、この上ない安心をくれる笑顔。


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作者の懺悔

ものすっごい難産しました。前作書き上げてすぐ書き始めたのに気づいたら…えっ何ヶ月? 数えるのも怖いorz 途中でテーマが分岐したりして力不足を痛感しました。うまくまとめる構成力がほしい。
テーマ的には先生との会話で消化してる(と思う)んですよね…つまりバルトの部分は実は必要ないと(笑)バルビリ色の最も薄い作品になったかと思います。
最近自分の文章にそういう傾向があることにようやく気づき始めたのですが、今回はほぼ書き終わった段階で一人称に書き直してやろうかと思ったくらい限りなく一人称に近い三人称な文章になったように思います。心理描写が一人でいいから楽だとかそういうことかも…; 分析しつつ次回作に向けての反省材料にしたいです。
後書きまでカプ色(萌)薄い…; 反動で次はラブラブを!