claustrophobia 月下の雪の白き肌を縁取るは、 銀糸の髪と翡翠の瞳。 頬と唇彩る薄紅は、命咲き誇る春の色。 破邪の剣振り翳し、冴え渡る涼やかな声。 恋は落ちるもの。 所変わり、文化が変わり、言語が変わっても、 不思議なことに、“恋”に“落ちる”という言い回しは変わらない。 落ちる。溺れる。焦がれる。囚われる。 人はずっと、後ろ向きな言葉で、自分を前へと突き動かす感情を表してきた。 何故か必ず同居する背徳への、それは免罪符なのか。 落ちるのは、這い上れない谷間。 溺れるのは、浮き上がれない深淵。 焦がれるのは、消せない炎。 囚われるのは、逃れられない檻。 さあ、弾を込めろ。 さあ、月を穿て。 修道院の朝は早い。朝一番の礼拝は地平線が白むはるか前、午前三時に始まる。すなわちそれまでには起床していなければならないわけで、就寝前の礼拝が午後十時であることを考えると睡眠時間は決して十分とは言えない。 手元も見えないような暗い礼拝堂の中で、冷たいロザリオを繰る。晩秋にさしかかったアクヴィでは、明け方には零下まで気温が下がることも珍しくない。清貧という言葉をかさに押し付けられる薄っぺらい修道服は、刺すような冷気から体を護ってはくれず、牢獄のそれにも似た石の床は容赦なく体温を奪っていく。 そんな拷問じみた朝に始まり、繰り返される、戒律でがんじがらめの日常。外界との繋がりを断ち切る高い塀。 彩度を失った世界。 牢獄と似ているのではない。牢獄そのものだ、とベルレーヌは思った。 朝の礼拝が済むと、修道士たちは院の方々へ散る。朝食まで数時間あるわけだが、もちろん油を売ったり二度寝したりはしない。割り当てられた軽作業――花壇の整備からギアの整備まで、個々の能力に合わせてそれは多岐に渡る――をこなすのだ。 塔の小窓から見下ろしていると、四方を塀に囲まれた牢獄の庭で働き蟻のように寡黙に動き回る修道士たちの姿は滑稽でたまらなかった。さらに始末が悪いのは、彼らのほとんどはそれらの雑務や睡眠不足必至の日課を全く苦にしていないことだ。彼らにとっては自分を苛めることこそが“修道”であり、喜びさえ感じてその辛苦を享受している。そう教え込まれている。生産性の感じられない雑務に明け暮れるその場所も、“信仰”さえあれば牢獄の箱庭から神の花園に変わるのだ。 とうに“信仰”を失った自分にとってそれらはただ無様なだけの不条理劇のようでしかなく、そんな自分こそ異質な存在であるこの場所では、日々募る苛立ちを押さえて暮らさなければならなかった。 苦虫を噛み潰したような表情で庭を見下ろしていたベルレーヌは、やや暗めのメープルブロンドを気だるそうにかき上げると、端正な顔を思いきり崩して盛大に欠伸をした。この朝彼の心を支配している苛立ちは、不条理劇云々というよりは、多分に寝不足から来ていた。 他人に見せる訳にはいかない、とまでは行かなくても見られてあまり喜ばしい動作ではないが、幸い今いる場所は他人に見られる心配はない。ベルレーヌは顔をくしゃくしゃにしたまま、目尻の涙を拭った。その仕草や表情は隙だらけで、仮面を被った肉食動物のような普段の彼を見慣れている周りの人間が見たら、少なからず驚くに違いなかった。 目をこすりながら何の気なしに再び庭を見下ろしたとき、塔と向かいの棟とを繋ぐ渡り廊下の屋根に造られた小さな花壇に誰かが出てくるのが視界の端に映った。反射的にその人物に焦点を合わせたベルレーヌの表情に、形容しがたい変化が現れる。 血のように赤い瞳が様々な色の光をめまぐるしく宿す様はまるで猫のそれのよう。 引きつるように上がった口元はまるで悪魔のそれのよう。 すぐに普段の仮面のような表情を顔に貼りつけたベルレーヌは、修道服の裾を翻し、足早に窓を離れた。 地平線から顔を出したばかりの太陽の光を浴びて、細く柔らかそうな銀髪の一本一本が輝いて見える。 花壇の脇にかがんだ少年は、近づくベルレーヌに背を向けていた。 ベルレーヌは少年から五歩ほどのところで立ち止まった。振り向こうともしないのは、気づいていて無視をしているわけではない。少年がそういった器用さを持ち合わせていないことはベルレーヌもよく知っていた。本当に気づいていないのだ。普段からの癖で足音も気配も殺してはいたが、それにしてもまるで気づかないなんてどうかしている。油断しすぎだ。 苛々する。 修道服の襟と短く刈った髪の間に白く細い首が見える。あの首に指を絡めたら、力任せに締め上げたら、どんな声を上げるだろうか。 どんな命乞いをするだろうか。 「おはよう、ブラザー・ビリー」 華奢な肩が小さく跳ねたのも、素早く立ち上がって振り返りながら平静を装う様子もはっきり見て取れた。動揺を隠し切れていない翡翠色の大きな瞳は、ベルレーヌの方を向いてはいるが映してはいない。いつものことだ。 「……おはよう、ブラザー・ベルレーヌ」 ベルレーヌは無造作にビリーとの距離を縮めた。いささか過剰反応気味に体を固くするビリーには構わず、その後ろの花壇を彼の肩越しに覗き込む。晩秋に咲く花は、季節を映すような寂しい色をしていた。肥料を入れた小さな器が地面に置かれ、わずかに土を掘り返した跡があるが、付近に土を掘れそうな道具は石ころ一つ見当たらない。 ガラスの彫刻を思わせる華奢な指は、土で黒く汚れていた。 「花壇の世話なんて、他の者に任せておけばいいだろうに。綺麗な手が汚れるよ。授業にも差し支える」 同じ院内で生活を共にする修道士たちだが、朝食の後の日課はそれぞれ異なる。ベルレーヌとビリーを含む一部の者は、贖罪官候補生として『教会』の剣と盾たるべく修道院に併設されている学校で神学や武術を始め様々なことを学んでいた。修道士の中でも選ばれたエリートである彼らは朝の雑務を免除されている場合が多く、その時間は主に授業の予習に当てている。ただ、それは彼らがエリートだからというよりは、授業が終わった後に予習だの復習だのに割ける時間がほとんど与えられていないからといった方が正しいかもしれないが。修道院の朝は早く、夜も必然的に早くなる。 ビリーはベルレーヌが皮肉と共に差し出したハンカチを受け取ろうともせず、首を振った。 「たまたま、手の空いている人がいなかったから」 皮肉に皮肉を返すこともなく、最低限の言葉ではあるが、律儀に答える。しかし、瞳の光は鋭かった。整いすぎた顔立ちのせいで表情に険悪さが増していることに本人は気づいてもいないのだろう。それで争いを避けたつもりなのか? 笑わせる。 ベルレーヌはこの少年が嫌いだった。 大嫌いだった。 風に乗って漂ってきた匂いが鼻を刺激する。花壇の隅には薬などに使われるハーブ類が植えられていた。大嫌いな匂いは、苛立ちを増長させた。 元々渡すつもりなどなかったハンカチ――ビリーが受け取るはずがないことも初めから分かっていた――を引っ込め、見下ろすように冷たく睨みつける。これで、大概の人間は逃げていく。ベルレーヌは飛び抜けて身長が高いというわけではないが、ビリーに比べればずっと高く、威圧感は倍増のはずだ。 しかし、彼は逃げない。いつも。整った眉をきつくひそめて、薄い唇を引き結んで。 その瞳にベルレーヌが映るのは、そんなときだけだ。 ベルレーヌは口元を緩め、肩をすくめた。 「君は、余程僕が嫌いなんだね」 ビリーの長い睫毛がわずかに震えたように見えた。本当のこととはいえ、当の本人に改めて言い当てられるのは戸惑うらしい。 「……そんなこと。嫌いだなんて……」 君の心を代弁してやろうか。視線を外したビリーの瞳の奥の光を覗き込みながら、ベルレーヌは心の中でつぶやいた。 そんなことない。嫌いじゃなくて、大嫌い! 苛々する。中性的で美しい人形のような容貌。幼さを残したボーイソプラノ。育ちの良ささえ感じさせる優雅な、それでいてどこか物憂げな仕草。気丈な光を宿した瞳。全部、大嫌いだった。 「……もう、行くよ」 ビリーは結局否定も肯定もすることなく、ベルレーヌの横をすり抜けた。さりげない風を装いながら、その実はたっぷりの嫌悪を含んだ動作で。ベルレーヌは皮肉っぽい微笑のまま、顔だけでビリーの動きを追った。 「また後で、ビリー」 振り返ることもなく足早に立ち去っていったビリーは、貼りついたままだったベルレーヌの微笑が変調をきたしたギアの警告灯のように不穏な明滅を見せていることには気づかないままだろう。 歓喜。陰鬱。執着。憎悪。どれも相容れない様々な感情が表れては消え、消えては現れる。 「大嫌いだ」 呪文のようにつぶやく言葉をぶつける相手は、そこにはいない。 世の中にはどうでもいいことが多い。中途半端に達観してしまった嫌な若者にとって、執着を見せる数少ない対象の一つであるビリーに対する自分の感情の全てさえ、数多あるどうでもいいことのうちの一部に過ぎなかった。 感情の動きも、その理由さえも。だから彼自身はビリーに対する自分の行動が執着だとは認識していないし、かといって違う名前を付けているわけでもない。どうでもいいことなのだ。ビリーそのものも。どうでもいい相手に何故執着するのかと、たとえ問われたとしても答えることはないだろう。 ただ、どうでもいい、と斜に構えているようでいて日常的に苛々してばかりいるあたり彼は達観しているとは言えなかったし、大嫌い、という感情こそがどうでもいい存在ではないという証であることにも気づこうとすらしなかった。 いささか分裂気味である、と言い換えることもできよう。 教室はもともと礼拝堂として使われていた場所で、演壇も長机もそのままだった。一番後ろの長机を占領したベルレーヌは、二列前の窓際に腰かけたビリーの横顔をいつものようにじっと見つめていた。無駄に広い教室内には机が有り余っていたので、そうでなくても誰かがその視界を遮ることはなかっただろうが、ベルレーヌは同じ列にも前の列にも他人を寄せつけなかった。彼が具体的に何かしたわけではなく、暗黙の了解というやつだが。 ビリーの横にも誰も座らなかった。こちらはただの偶然だが、必然でもあった。室内に暖房器具はなく、開けっ放しの窓際に好んで近寄る人間がいるような室温ではなかった。 ビリーはいつも同じ窓際の席に座っている。 ベルレーヌは机に頬杖をついたまま、冷たい風に吹かれて揺れる銀色の髪を睨み続けていた。目の前に置いてはいるが開こうともしない、一度は完璧に丸暗記したもののとうに忘れてしまった無味乾燥な言葉が羅列されている聖書のほつれかけた表紙の端を無意識にいじる指先と、時々思い出したように瞬く瞼以外は石像のように動かない。 まるでそうすることが義務ででもあるかのように。 時計の針が先に進むことのない牢獄の中で消えようとする熾に息を吹きかけるように、わざわざ感情を動かし、反芻する。 どうでもいい相手に、何故。たとえ問われたとしても答えることはない。答えを探すこともない。どうでもいいことだからだ。 司教に指名されたビリーが長椅子から立ち上がり、聖書の一節を朗読し始めた。ベルレーヌの目は動体センサーの付いたカメラのように、位置の高くなったビリーの横顔を追う。 澄んだボーイソプラノは教典の文句に言葉以上の――否、そもそも全くないはずの神聖さを与えていた。 頂点に達した苛立ちは、その口元を複雑に歪ませる。非常に不機嫌にも見えれば、何故か嬉しそうにも見える複雑な表情。 いつでも彼の本当の感情は誰にも読めなかった。 自分自身にすらも。 見えない糸で引っ張られるように、太陽がするすると地平線へ落ちていく。 授業が終わると、贖罪官候補生たちはそそくさと修道院へ戻っていく。夕刻の礼拝まではそれほど間がなく、用もない校内で油を売るような不真面目な生徒はそうはいない。 ベルレーヌは長椅子にどっかりと座り込んだまま生徒たちが教室を出ていくのを見るともなしに眺めていたが、視界の端に白いものが引っかかってふと焦点を合わせた。 ビリーの銀色の髪は、薄暗くなった室内では霧のような光さえ帯びて見える。扉の近くでクラスメートの修道士に声をかけられて何事か会話をしているようだったが、背を向けているので何を言っているのかまでは分からなかった。相手の顔に目をやるが、頭の中のデータベースから引き出せたのは『教会』に入って間もない新顔の修道士ということだけだ。 “さあ、行こうか”彼の言葉はちょうど終わるところで、唇から読み取れたのはその一言だけだった。 連れ立って教室を出ていく二人の背中を見送って、ベルレーヌは苦々しげに舌打ちをした。長椅子を蹴りつけるように立ち上がりながら、そういえば今日はスタインが外出していたはずだ、と頭の中で反芻するが、それが自分の行動に対する言い訳であるということは頭の中から自動的に消去して、足早に歩き出す。 二人が歩いていったのは随分前から使われていない旧校舎へと続く渡り廊下の方向だった。今の校舎でもこちら側は普段から人けがなく、授業も終わった今は猫の子一匹見当たらない。何と声をかけられたのか知らないが、油断にも限度というものがあるだろう。いくら“過保護”にされているとはいえ。ベルレーヌはこみ上げる頭痛と苛立ちに額を押さえながら、二人の向かった方へ大股に歩いていった。 渡り廊下はベルレーヌのお気に入りの場所でもあった。豪奢な飾り窓を通して西日が差し込む風景は、信仰を捨てた心にさえ「神々しい」という形容が生まれるほどに美しい。よりによってその場所で、これだ。か細い拒否の声が聞こえてため息をついたベルレーヌは、廊下の角で立ち止まってその先を覗き込んだ。 ビリーは壁際に追い詰められて、自分をここまで連れてきた修道士を恐怖に満ちた表情で見上げていた。修道士の方は表面的にはまだ紳士的な態度を保っているようだったが、時間の問題だろう。 さあどうするか、とベルレーヌが一瞬思案したそのとき、修道士がビリーの肩に掴みかかった。ビリーが小さく悲鳴を上げて身をよじるのが目に映ったその瞬間、頭の奥がかっと熱くなって、ベルレーヌは彼の信条とする行動前の十分な思慮を無意識に飛び越え、体を前に押し出した。 ビリーが自分の肩越しに何かを見つけたことに気づいた修道士は、振り返ることができなかった。高く上がった革靴の踵がその首筋にまともにめり込み、修道士は糸の切れた操り人形のような不自然な体勢で廊下の反対側まで吹っ飛んで、壁に叩きつけられた。 ベルレーヌはぼろ雑巾のように床に崩れた男をしばらく睨みつけていた。凶暴な衝動が入道雲のようにむくむくと湧き上がってきて、今にも足を踏み出そうとしたとき、衣擦れの音が耳に届いて動きを止め、ビリーの方を振り返った。 ビリーは自分の肩を抱くようにして壁に背中を預けていた。肩がかすかに震えている。ベルレーヌは乱れた修道服を手早く整えて、胸のリボンを結び直してやった。そうするうちに、感情の波は引いていった。 服をちょっと引っ張られたくらいでなんだ、とののしる気は起きなかった。気遣う気持ちからではない。彼にとっては今しがたの出来事が最大であり、比較する対象を知らないのだから。ののしる意味がない。 「大丈夫かい、ビリー」 小さく頷くビリーが向こうに倒れている男をこわごわ見ているのに気づいたベルレーヌは、そちらを一瞥してから自分の体でその視線を遮った。 「あと一時間は目を覚まさないから、心配しなくていい。君が望むなら、永遠にでも」 口に出してから、ベルレーヌは大声で笑い出したくなった。君が望むなら、なんて皮肉にしてもよく口にしたものだ。 永遠を望んでいるのは自分の方だ。ビリーがこの場にいないか、気絶でもしていれば、ベルレーヌは衝動の赴くまま男を言葉通りの目に遭わせただろう。 無性に腹立たしくて、許せなかった。男の行為が。 汚らわしい欲望にまみれた手でビリーに触れたことが。 何故それが腹立たしいのかは考えない。その点はかたくななまでに徹底している。 あれこれ思案していたのはほんの一瞬のことで、彼の言葉の意味を一拍置いて理解したらしいビリーが慌てて首を振りながら腕にしがみついてきて我に返ったベルレーヌは、微笑を浮かべてその顔を覗き込んだ。 「驚かせてごめんよ、ビリー。君が彼に不快な思いをさせられることが二度とないように、僕から司教様に話しておくから」 舞台の上の三文役者を眺めているような白けた気分の自分が頭の隅にいる。 今のは自分の言葉ではないと消極的ながら主張している。 台本を読んだような白々しい言葉。そう感じるのは、普段の自分はそんな言葉を本意で口にしたりしないからだ。心にもない優しい言葉を、台本を読むように完全な皮肉として口にする。白けた気分で。普段ならば。 そんな台詞を真面目に吐くこの三文役者は誰? そんな台詞を考えたのは誰? 視点がくるくると変わる。舞台の上から見える、目の前のビリー。舞台の袖から見える、舞台の上の三文役者。 「……あ……ありがとう、ベルレーヌ」 ビリーの声は震えていた。ベルレーヌとの間に普段なら必ず築く壁を安心のあまりか取り払ったまま、すがるような瞳で見上げている。潤んだ目の縁と鼻の頭が朱に染まって、その姿はあまりにも頼りなげだった。何故君は大嫌いな相手にそんな風に心を許すんだ。舞台の袖からそう突っ込む声を聞き流して、三文役者が優しい微笑を浮かべる。 「礼には及ばないよ。怖かったんだね、ビリー。安心していい。もう大丈夫だから」 癖のない柔らかな髪にそっと指を潜らせると、冷たそうな色の髪の奥から温もりが伝わってくる。 ビリーの目の端からとうとう涙が溢れ落ちて、あろうことか胸にすがりついてきた。ベルレーヌの修道服を引っ張りながら、怖かった、と蚊の鳴くような声でつぶやく。 ベルレーヌはビリーの頭に頬を寄せて、その肩をあやすように軽く叩いてやった。ビリーの体温が移って、胸の辺りが温かい。石鹸の残り香のような甘い香りが、心地良かった。 三文役者は、役者ではない。演技をしてはいないのだから。 その言葉は、台詞ではない。台本を読んではいないのだから。 胸の底が冷水を流し込まれたように冷たくなる感覚を覚えて、ベルレーヌははっとなって顔を上げた。 これは、恐怖? 目眩がした。舞台の袖から飛び出したベルレーヌは、三文役者ごとビリーを突き放した。 「……無事で……何よりだったね、ビリー」 凍った瞳。貼りついた微笑。それは、台本の台詞。 戸惑ったように見開かれていたビリーの瞳が、落ち着きを取り戻すにつれて諦めと失望の色で満たされていくのがはっきりと分かる。彼の大きな瞳は、時としてその口よりも雄弁だった。 「もうすぐ夕刻の礼拝の時間だ。僕は先に戻るけれど、遅れないようにね」 普段以上に白々しい台詞を機械のように吐き出すと、ベルレーヌは身を翻して足早にその場を後にした。 夕闇が連れてきた冷たい空気が、その体を出迎えるように包んだ。 世の中にはどうでもいいことが多いから。 彼は、達観しているとは到底言えなくて、 さらに始末の悪いことには、自分では達観したつもりでいる。 何も気づかずに、気づこうともせずに、 今日も傷口に刃を突き立て続ける。 何もいらない 後悔も、悲しみも だから、どうか、逃がしてください >>BACK >>INDEX
作者の懺悔 |