63072000 sec. 読み切るのに一週間かかる本だって、 百四回も読み返せる。 十秒に一回キスしたとしたら、 六百三十万七千二百回、キスできる。 でも、祝福の蝋燭を吹き消すのは、たった二回。 たったの二回。 「ビリーさんてさ、83年生まれだよね?」 昼下がりのガンルームは閑散としていた。早朝からギアで動き回って疲れ果てていたビリーにとってはうってつけの環境で、昼食を済ませた後、午後は体が空いているのをいいことに紅茶をお代わりしながらだらだらと過ごしていた。 センスのいいジャズがBGMの域を出ない音量で流れる心地良い静けさにゆったりと身を浸す。老執事のこだわりが見え隠れする紅茶は美味しくて、何杯飲んでも飽きないのはとてもありがたかった。満ち足りたため息をつきながら四杯目のカップに唇をつけたとき、マルーが珍しく一人でガンルームに現れた。 珍しく、というのはビリーの主観だ。イグニス最大の宗教であるニサン正教を統率する現大教母、といういかめしい肩書きはお世辞にも似合うとは言えない、天真爛漫で活発な少女。その陽気な笑顔はいつでもバルトやシグルドの傍ら、ときにはエリィたち女性陣の輪の中にある。そこにいるだけでその場の空気を和ませる人間というのは確かにいるものだ。誰もが彼女の近くにいたがるからこそ、彼女は一人になることはない。少なくとも、ビリーは一人でいる彼女を見たことがなかった。 だからその後ろに当然騒がしい艦長や物静かな副長やその他大勢が続いて入ってくるのだろうと思っていたのだが、彼女は一人だった。カウンターの中のメイソンに挨拶した後、一人でテーブルにいるビリーを見つけて、まるで恋人との待ち合わせに遅れた少女のように手を振りながら近づいてきた。 「お疲れ様、ビリーさん。午前中は大変だったね」 ごく当たり前の労いの言葉が、彼女が一人だというだけで何故か不思議に聞こえて、ビリーは目を丸くしたまま曖昧に頷いた。 マルーはそのままビリーの向かい側の椅子に腰掛けて、朗らかにさえずり始めた。バルトはギアの整備、シグルドはブリッジの指揮、エリィは……マリアは……皆それぞれ用事があって、話し相手がいなくて退屈していたという。微笑ましい気分になったビリーは、くすくす笑いながら相槌を打った。 会話をしたことがないわけではないが、大抵はバルトが一緒だった。というよりは、バルトとマルーが漫才をしているところにビリーが突っ込みを入れると言った方が正しいだろう。他愛のない内容とはいえ二人きりで会話することは初めてなのだが、その割に緊張も気負いもまるで沸いてこないのは、やはりマルーの柔らかな雰囲気のおかげだった。 そういえば、初めて会ったときに約束をしたニサンの教義の話はまだしたことがない。 今まで魂全て預けるように信じていた教義に裏切られたのだから、当然といえば当然なのだが。 ふと飛ばした意識を戻したとき、マルーのさえずりは途切れていた。自分が上の空だったせいで気を悪くしたのかと、ビリーが慌ててテーブルに身を乗り出したときだった。マルーが冒頭の質問を口にしたのは。 「そういえば……ビリーさんてさ、83年生まれだよね?」 その質問は今まで彼女が話していた内容とは全く脈絡のない唐突なものだったが、気分を損ねた様子がないことにまず安心したビリーはあまり屈託せずに「そうだよ」と頷いた。 「そうだよね、ボクと同じなんだもんね。そっかぁ……尚更、凄いなぁ」 美しい碧色の大きな瞳は、澱みのない尊敬の念を湛えてまっすぐにこちらを見つめている。その尊敬の意味も理由も全く分からないビリーは、初めのマルーの質問からして改めて不思議になり、首を傾げた。 「……83年生まれだと、何か凄いの?」 「うん、あのね……えーと……」 マルーはテーブルに頬杖をつき、言葉を探すように視線を宙に泳がせた。 「今、ソラリスを倒すために頑張ってるでしょ? 皆」 「うん……そうだね」 「それがね、凄いなって思って」 「どうして?」 「だって、今まであった世界をひっくり返しちゃうようなことなんでしょ? それを、ボクと年の変わらない人たちがやっちゃうんだもの。マリアなんて、ボクより年下なのに」 自分がどんなに子供かっていうことが分かってるから、ほんとに凄いと思うんだ。マルーはそう付け加えた。その言葉はともすれば共に戦えない自分への無力感や劣等感をはらむものだが、彼女の中にはそういった負の感情はないようだった。戦えなくとも自分には自分にしかできないことがあるということを、無意識にせよ理解しているのだ。だからこそ、その賞賛の言葉は純粋だった。 「シグがボクたちを助けてくれたのだって、シグが若ぐらいのときだったんだもんね。皆、凄いや」 「シグルド兄ちゃんは特別だよ」 「ふふっ、そうだね」 その笑顔は、実際の年齢よりも幼く見える。背丈も血縁にあれだけ高い人間がいる割には低い。又聞きでしかないが、それは幼い頃の幽閉で受けた精神的外傷によるものだという。 「……年齢なんか関係ないと思うよ。確かに皆、世界をひっくり返すには若いし……ここに立っている経緯はそれぞれ違うけど、それしかなかったって人がほとんどだ。……僕も、皆も」 「うん……でも、やっぱり凄いよ。……早く大人になりたいな」 「大人?」 「……うん。追いつきたいんだ」 「誰に?」 マルーはそれには答えずに、不服そうに唇を尖らせて頬を膨らませてみせた。 「……背は、頑張って牛乳飲めば伸びるかもしれないし……胸も大っきくなるかもしれない。でも、歳だけはどんなに努力してもどうしようもないでしょ?」 二つ目の例はかなり衝撃的だったが、ビリーは聞かなかったふりをすることにした。追いつきたい相手の見当はついていたが、身長はまず無理だろうし、胸に関しては比べる対象が違うだろうとは思ったが、揚げ足を取るのもやめておいた。そっちは、エリィのことかもしれない。 「ボクが十八歳になったときには、若は二十歳になってるんだもの。ボクが二十歳になっても、若は二十二歳。永遠に追いつけないんだよね。どんなに頑張っても」 追いつきたい対象を明かしたマルーは、テーブルに伸びてため息をついた。 「二年って、大っきいよね。なんか悔しいや」 「そういえば、そうだったね。バルトたちは僕たちより年上なんだ」 全然そんな気がしないけど、とビリーが付け加えると、マルーはぷっと吹き出した。 「ビリーさんならそう言うと思った。精神年齢なら若やフェイより全然上だもん。あ、老けてるとかそういうんじゃないよ」 「褒め言葉として受け取っておくよ」 ビリーはもったいぶって頷きながら、改めて思いを巡らせた。十六歳と十八歳。数字にすると、確かに結構違うような気がする。 「……十代のうちはそう思うかもしれないけど、二十代とか三十代とかになれば、きっとそんなこと思わなくなるよ。三十六歳と三十八歳なんて、大して違わないでしょう?」 「うん。……でもね、やっぱり、たまに思うんだ」 ふと目をそらしたその横顔は、不意に大人びて見えた。 「ああ、やっぱり年上なんだなって。同じ時を生きてる限り、追いつけないなって」 追いつく方法はただ一つだ。 マルーはすぐに深刻そうな表情を振り払い、それを冗談にすることにしたようだった。 「誕生日のケーキもボクたちより二つも多く食べてるんだよ! 許せないよね。ボクだってずっとシフォン・ニサーナ我慢してるのに!」 ビリーはマルーの心を無言で汲み取り、微笑を浮かべた。 「……ニサンには何年か前にも一度行ったことがあるけど、シフォン・ニサーナは暇がなくて食べられなかったんだ。でも、名前だけは聞いたよ。有名なんだってね」 「じゃあ、今度ニサンに寄ったときには皆で食べに行こうね」 「うん、ぜひ」 精神年齢が高いなんて自分で思ったことはない。 マルーはきっと、外面のいいところだけを取って言ってくれたんだろう。 自分がどんなに子供かということは分かっているし、彼女もそういう自分を知っているはずだから。 自分がどんなに子供かということは分かっている。感情が激してくると現れる、冷静なときは押し隠している幼い自分。 ただ、事実として認識するだけで理解しようとも認めようともしない。それが、子供たる所以なのだけれども。 それが“分かって”いるだけ、大人って言えるのかな? 「お前、子供のくせに酒なんか飲むなよ。お前の親父みてぇな大人になるぞ」 その日も地雷を踏んだのはバルトだった。珍しく虫の居所が悪かったのか、夕食後にガンルームで晩酌をしていたビリーに難癖をつけた。 晩酌、といってもせいぜいグラスに一杯か二杯で、それも気の向いた日だけだ。ユグドラシルを代表する酒豪ジェサイアに言わせればジュースと大して変わらない果実酒。度数も低い。酒飲みの遺伝子を受け継いだビリーにしてみてもジュースと大して変わらない。もちろん今まで誰かに咎められたこともないし、バルトとてそんな光景は何度も目にしていたはずで、時には同じテーブルについてグラスを交わすことさえあった。だから、それは様々な偶然の産物だった。たまたま機嫌が悪かったバルトがたまたまガンルームで酒を飲むビリーを見つけて、それがたまたま気に障って難癖をつけた。もしかしたら本人には難癖のつもりはなく、会話のきっかけを作りたかっただけなのかもしれないが、その言葉と言い方はとても適切とは言えなかった。それだけのことだ。二人の喧嘩はいつでもこんな偶然から始まる。 深い理由も主張もない。子供の喧嘩だ。 言葉そのものは大した棘を含むものではなかったが、その表情や声のトーンには棘が含まれていたので、ビリーは臨戦体勢に入ってバルトを睨み返した。バルトはカウンターにいたメイソンにぶっきらぼうに「酒!」とだけ声をかけ、立ったままカウンターに肘をついてビリーを睨んだ。テーブル席に座っていたビリーを見下すような角度になる。 「そういう君はどうなんだよ。お酒、弱いくせに」 「俺はいーんだよ。大人だから」 バルトはメイソンの差し出したグラスをひったくるように受け取ると、一気に喉に流し込んだ。 「アヴェじゃ酒は十八からって決まってるんだぜ。お前、十六だろが」 「……アクヴィではそんなの決まってないし、ここはアヴェじゃない。大体大人とか子供とかは関係ないじゃないか、それ」 昼間マルーと年齢の話をしたばかりなだけに、バルトの言葉はいつも以上に癇に障った。飲酒の年齢制限など知ったことではないが、年齢をだしにされるのは本当に腹が立つ。努力ではどうしようもない絶対的な数字だからだ。 同じ時を生きている限り、追いつけない。いっそのこと今ここでバルトの時を止めてやろうか。 「酒が飲めれば大人」 「じゃあ飲める僕が大人で、ほとんど飲めない君が子供だろ。それで行くと、全然飲めないシグルド兄ちゃんは子供になっちゃうな」 「そーいうの、屁理屈って言うんだよ。飲める歳になったら、大人。お前はまだ子供」 バルトはグラス一杯でアルコールがいい感じに回ったらしく、表情から棘が消えつつある。しかし、代わりにビリーの心に棘が増えていった。 「……そんなの、誰が決めたんだよ。そんなくだらないことで大人か子供かなんて決められたんじゃたまらない」 「でも、どっかで線引くとしたらそれくらいしかねぇじゃねぇか。国によっては二十歳ってとこもあるみてぇだなー。だとすると俺もまだ子供か? お前はどっちにしても子供だな」 もはやバルトは自分が喧嘩を吹っかけたことすら忘れているようだった。悔しい。腹立たしい。頬がかぁっと熱くなり、頭の中で何かが音を立てて弾けたような気がした。 「だから、何で線なんか引くんだよ! 年上がそんなに偉いの!? 年齢なんかに固執する方がよっぽど子供じゃないか!」 突然大声を張り上げたビリーを驚いたように見つめるバルトに反論の隙は与えず、ビリーは座っていた椅子をひっくり返して立ち上がると、手に持っていたグラスの中身をバルトに向かって勢いよくぶちまけた。グラスには氷がわずかに残っていただけだったのでそれほどの惨事にはならなかったが、それでも色々な意味で相当の威力はあったらしい。バルトは濡れた頬を拭おうともせず、呆然とビリーを見つめていた。怒りも何もない、ただ驚きだけが現れたその表情を見て、一瞬だけ戻った理性がブレーキをかけたが、すぐに悔しさに押し流される。 「十八歳と十六歳で何が違うっていうんだ。たかが二年早く生まれただけで、年上ぶって……そういうのを子供って言うんだろ。馬鹿馬鹿しい……!」 年齢に固執しているのはどっちだ。 子供なのはどっちだ。 分かってる。嫌というほど、突きつけられる。悔しい。もどかしい。腹立たしい。 認識するだけで理解も容認もしない。それが子供たる所以。 「僕は、君みたいに……子供じゃ……!」 火を噴くように熱かった両の目から涙が溢れ落ちて、ビリーの忍耐の糸はぶっつり切れた。グラスだけはどうやら割らないようにテーブルに戻したが、倒れていた椅子は乱暴に蹴飛ばして一目散にその場を逃げ出す。貧血を起こしたときのように視界が極端に狭まって、周りはほとんど見えなかった。 我に返ると、真っ暗な部屋の床でベッドに背を預けて膝を抱え込んでいた。まっすぐ階段を下りて部屋に駆け込んだのだろうが、まるで艦中走り回ったように体が重い。濡れた頬が冷えていくにつれて、心の波立ちも収まっていった。 一体何をやってるんだろう、僕は。 ビリーは自己嫌悪に押し流されて、膝の間に顔をうずめた。 どれくらいそうしていたのだろう。か細いドアブザーが静寂を破って、ビリーはびくっと肩を震わせた。 ドアのパネルに灯ったLEDの光を見て少し安堵する。夢中で駆け込んできたにも関わらず、ロックはしっかりしたらしい。今は、誰にも侵されたくない。 しかし、閉ざしたはずの領域はすぐに破られた。ロックがあっけなく解除され、何事もなかったようにドアが開く。入ってきたシルエットを見て、ビリーは動くことができなかった。心の水面が再び怒涛のように荒れ狂い始める。 「ど……やって……」 訳もなく涙が溢れて、こみ上げる嗚咽にろくに声も出ない。「マスターコード」とだけ答えたバルトの表情は見えず、その意図どころか、その口から出た言葉の意味さえもビリーには知覚することができなかった。 出てって! 叫んだつもりだったが、声になったかどうかは分からなかった。動揺しきったビリーには、体を丸めて自分を護るように抱きしめるのが精一杯だった。 なんでこんなに動揺しているんだろう。いつも通り喧嘩しただけじゃないか。ひとかけら残った冷静さが他人事のように問いかける。そして、自分で答えている。悔しいだけだ。自分が子供だって認めるのが、嫌なんだ。だからこそ、子供なのに。 それを受け入れられたら、一つは大人になれる? 「マルーに聞いた。無神経なこと言って、悪かった」 やめて。謝ったりしないで。余計に思い知らされる。 「……なぁ、ビリー」 マルーの言葉が蘇る。 先に折れるのは、いつも君。 こんなとき、僕はかたくなにしかなれない。 踏まなくてもいい地雷を踏むのはいつも君、すぐにかっとなって泥沼にするのも君、言い返せなくなってさっさと逃げ出すのも君、 なのに、なのに、なのに! すぐ脇に足音が近づいたと思った次の瞬間背を預けていたベッドが大きく揺れて、ビリーは驚いて体を起こした。隙間の空いた体と足の間に両側から素早く腕が差し込まれて、上半身を引っ張り起こされる。抵抗も空しくそのまま体全体がふわりと浮き上がり、ベッドに腰かける形で引きずり上げられた。体を持ち上げた腕はそのままビリーの動きを封じるように締めつける力を強め、力強い体温に全身が包まれる。 バルトの匂いがする。 青リンゴの甘酸っぱい匂い。 胸が苦しくなったのは、腕で締めつけられているためだけではなかった。 「……は……なし……て……!」 腕は手首から先しか動かせない。唯一自由になる足をばたつかせると、左右に投げ出されていたバルトの長い足が伸びてきて、ビリーの足を挟み込むようにひょいと押さえた。 「暴れんなって」 頭のすぐ後ろでバルトの喉が言葉に合わせて動いたのがはっきり分かった。耳元でした声の振動が頭蓋骨を通して伝わってくるようで、ビリーはくすぐったくなって肩をすくめた。 「……離してよ……」 「やだ」 「……離してってば……!」 「やだよ。離せって言われたら、離したくなくなるんだ。子供だからな、俺」 「……じゃあ、離すな」 「分かった。離さねぇ」 「何だよ、それ……」 「屁理屈、かな」 結局のところ離すつもりはないらしい。バルトの顎が肩に乗って、軽いため息が聞こえた。 「俺が年上なの、そんなに嫌?」 「………」 「俺は、お前の方がよっぽど大人だと思ってたけどな。あーそうか、だから嫌なのか」 「……そうじゃないけど。……さっき」 「あん?」 「さっき……子供って言ってたくせに」 「そりゃ、歳はな。でも……ものの考え方とか、そーいう精神的なとこは、お前の方が俺なんかよりずっと大人だと思ってるよ、俺は」 「……悔しいけど、そんなことない。自分で分かってる」 当の本人に言われたって慰めにもならない。 ただ、ビリーは泣きじゃくっていた先程よりはずっと落ち着いていた。 それはきっと、全身を包む体温のおかげ。 「……悔しいのは、俺の方だよ」 バルトが小さくつぶやいた。 「……どうして?」 「言ったろ? お前の方がずっと大人だと思ってるって。そういうお前を見るたびに、俺より大人なお前を見るたびに、年下のくせに……って思って、悔しいんだ。同時に、年下でよかったとも思ってちょっと安心する。そうじゃなかったら……もし同い年だったら、お前はきっと俺よりずっと先に行っちゃうだろ?」 お前の方が年下だから、俺はかろうじてお前と同じとこに並べるんだ。バルトはそう言って、ビリーの肩に顔をうずめた。 「……だから、お前がさっきみたいに子供っぽいこと言うと、なんかほっとする」 「……子供だもの、僕は」 初めて、認める言葉がすんなり出てきた。肩口でバルトが頷くのが分かる。 「俺も、子供だよ。二年くらいはアドバンテージがないとお前に置いてかれそうで不安で仕方ない、子供。追いつかれるのも追い越されるのも、ほんとは嫌でもなんでもない。ただ、置いてかれるのが怖い」 「怖い? ……悔しい、とかじゃなくて?」 「悔しいのは、嫌だからだろ? そうじゃねぇんだ、俺の場合。嫌なんじゃなくて、……そうだな。俺の手が届くとこにいてくれれば、後ろにいても、前にいても、構わない。追い越してもいいから、手が届くとこに」 「……手が届くところ?」 「そ。こうやって、捕まえられるとこ」 腕が深く絡められて、肩に乗っていた顎が少し前に移動すると、互いの髪の毛がこすれ合ってざらざら音を立てた。意外に柔らかい金髪が頬をくすぐる。 「……追い越してもいい、って言ったけど、やっぱ嫌かな。こういうとき、嫌がるなら嫌がるで、黙って振り払うんじゃなくて、泣きながら大暴れするようなお前でいてほしい」 「………」 「そんなことするほど子供じゃない、って言わねぇんだな?」 「……子供だもの。さっき、してたし」 「それでいいんだよ。あんま冷めてると、可愛くねぇしな」 「……冷めてた? 僕」 「冷めたふり、してた。それが表面だけで、中身は結構冷めてねぇんだって、最近やっと分かった。冷めてるのは可愛くねぇけど、冷めたふりは可愛いな」 子供っぽくて。バルトのその言葉は普段だったら頭に来て、腕が自由になればその脇腹に渾身の肘鉄をお見舞いしてやるところだが、そのときは何故か胸を甘ったるく震わせた。その反応にビリー自身が戸惑って、バルトに悟られまいと顔を伏せ、そっと深呼吸をする。 「……同じくらい子供な君に、そんなこと言われたくない」 不満を口にしていても、その口元は微笑んでいた。自分を抱きすくめる力強い腕にそっとすがりつく。腕の中にすっぽり入っちゃうなんて、やっぱり体格が違うんだなぁ……そんなことを、先程までの波立ちが嘘のように穏やかになった心で考えている。 「そうだな。子供だよな、俺たち」 バルトが楽しそうにつぶやいたとき、その腕が不意に緩んだ。訝しく思ってすぐ横にあるその表情を確かめようと首を曲げたときに見えたのは、あまりに距離が近くて焦点が合わずにぼやけたハニーブロンドの髪。同時に柔らかな熱が唇を塞いで、身動きが取れなくなった。 偶然の事故だ。首を曲げた拍子にぶつかっただけだろう? などと考えている余裕は当然ながらビリーの頭の中には残っていなかった。五感も何も全て吹っ飛んで、分かったのは唇から熱が離れた瞬間だけだった。病院で目の検査でも受けるように両目をいっぱいに見開いたまま、ビリーは次第にはっきりしてくるバルトの顔を見つめた。その照れくさそうな表情に事態を飲み込んだ体がさまざまな条件反射を起こし始める。頬は燃えるように熱くなり、体中が汗でびっしょり濡れて、心臓は喉から飛び出そうに高鳴る。 「……なっ、な……な……」 からからに渇いた喉からは、文句も悲鳴も悪態も、何も出てこない。目が回る。 「……あー……ほら、子供ってさ、訳もなくキスしたりするだろ? ……寝る前とかさ」 馬鹿言うな! そう叫んで顔面を力任せに殴ってやりたい。ああ、でも駄目だ。体が動かない。 やばい、涙腺が切れる。感情の動きでもなんでもなく、機械的にそう感じた。 視界が一気に霞んで、大粒の涙が頬を伝わるのが分かった。 「びっ……ビリー!? な、泣くことねぇだろ……!」 バルトは大慌てでビリーの肩を掴み、その顔を覗き込んだ。 ビリーはしゃくり上げながら体を丸め、バルトの胸に額をこすりつけた。何故涙が出てくるのか、よく分からない。強く抱き寄せられてその広い胸板に顔が埋まり、涙がシャツに吸い取られていく。 どうしてこいつは、人の心をこうもめちゃくちゃにかき乱すんだ。 「……からかわないで……」 どうやら絞り出したか細い声に、頭のすぐ上でバルトが何度も首を振るのが分かった。 「……からかってなんかいねぇよ。いきなり……その、キスしたのは、悪かったけど。……いや、悪くねぇ」 「……何でだよ……」 「……好きな奴にキスして何が悪い」 蚊の鳴くような声だったが、耳元での囁き声としては十分すぎる音量だった。 胸の奥が甘苦く痛んで、ビリーは何かに急き立てられるように顔を上げた。 「好き……って?」 「……好きっつったら、好きだよ。……ほんとに訳もなくキスなんかするわけねぇだろ」 子供じゃねぇんだから。 先程までの会話の流れからすればこれほど滑稽な言葉はないのだが、ビリーは揚げ足を取ることはしなかった。代わりに、皮肉は付け加えた。 「相手の都合を考えないのは、子供って言わないの?」 「考えてるさ。だって、お前俺のこと好きだろ?」 「……どこから来るんだよ、その自信」 「よく言うじゃん。自分が好きだったら、相手も好きだって」 「……子供みたい」 「子供で結構。なんでもプラス思考で行かねぇと、世の中……」 バルトの言葉が終わるのを待たずに、ビリーはその肩につかまって伸び上がると、そっと唇を重ねた。 鳩が豆鉄砲を食らったような、という形容がぴったりの真ん丸くなった隻眼を覗き込んで、微笑む。 「……好きな奴にキスして何が悪い?」 空が白むまでにはまだ間がある。 十秒に一回キスしたとしたら、 ……試してみる? 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作者の懺悔 |