crisscross

ひどい喉の渇きを覚えて、ビリーは目を覚ました。
体中の関節がぎしぎし軋んで、この上なく不快だ。昨日はそんなにハードワークだったっけ、とぼんやり考えながら、サイドテーブルに置いてあったはずの水差しを手探りで探すが、その手はスタンドをひっくり返しただけだった。
そういえば水なんかほとんど入っていなかったような気もする……仕方ない、何か飲みに行こう。ビリーはふらふらと立ち上がると、小さなLEDの光を頼りに扉を開け、廊下に出た。
地平線が仄かに白み始めたかどうかという時刻のこと、辺りに人影はない。薄青い非常灯の心許ない光だけが点々と続いている。寝ぼけた瞳はうっすら霞んで、見慣れているはずの風景がなんだか普段と違う気がした。足元がよく見えないせいかどうも体の平衡が保ちにくく、ビリーは壁に手をつきながら歩いていった。あれ? 螺旋階段がない……上ればすぐガンルームのはずなのに……ここはどこだろう?
疲れていて違う部屋で寝てしまったのかもしれない。眠気で麻痺した頭は理由を深く追求する努力を放棄しており、ビリーは夢遊病者のように歩き続けた。目の前に現れた扉を開けて、見慣れた廊下に少し安心する。この先の扉を開ければガンルームだ。
照明の落とされたガンルームの隅で明るく浮き上がったカウンターに、シグルドの逞しい背中が見えた。物音に気づいて振り返り、慈愛深い微笑を見せる。
「おや、若。おはようございます。珍しいですね、こんなに朝早く」
ビリーは少しむっとして動きを止めた。僕の方が先に入ってきたのに、バルトにまず声をかけるなんてひどいじゃないか。それにしても、何の気配も感じないなんて、ちょっと油断したな……色々な文句を考えながら後ろを振り返るが、そこには誰もいない。
「……バルトなんかどこにもいないじゃない、シグルド兄ちゃん……おどかさないでよ」
自分の声とは思えないしゃがれ声が喉から出て、ビリーは咳払いをしながらシグルドに向き直った。風邪でも引いたのかな。そうだ、メイソンさんに蜂蜜入りの紅茶を入れてもらおう。のんきなことを考えているビリーを、シグルドとメイソンが呆れたような目つきで見つめている。
「……ビリー様がお聞きになったらさぞお怒りですよ、若……」
「全くですよ。それとも、寝ぼけているんですか? ちょっとこちらに来て水でも一杯飲んでください。目が覚めるでしょう」
「……? 何言ってるの、二人とも……?」
咳払いを繰り返しても、ハスキーボイスは直らない。ビリーは目をごしごしこすった。右目の霞みは先程からすっかり取れていたが、左目は未だひどく霞んだままで、ほとんど何も見えない。
「シグルド兄ちゃん、目に何か入っちゃったみたい……見てくれない?」
「……若。ビリーの真似はもういいですから」
処置なしといった顔で立ち上がって近づいてきたシグルドが、子供をあやすように背中を叩きながらカウンターへと導く。
「真似って、何言ってるの!? さっきから二人とも、若、若って……!」
眠さも手伝っていらついていたビリーは、シグルドの手を力任せに払った。驚いたような顔が、いつもよりずっと低い位置にある。普段はまっすぐ向いたままじゃ肩のてっぺんも見えないのに。シグルド兄ちゃん、身長縮んだの? ぼんやりそう思ったとき、ゆるくウェーブしたハニーブロンドがふわりと肩にかかった。
「……え?」
ビリーは肝試しで肩に乗せられたコンニャクを見るように自分の肩に乗った蜂蜜色の髪の束を見た。ぜんまい仕掛けの人形のようなぎくしゃくした動作でそれを手に取り、引っ張ってみる。頭皮が引っ張られる痛みに、眠気はどこかへ吹き飛んだ。顔中をぺたぺたと触る。普段と手触りがまるで違う。少し骨ばった輪郭、かすかにざらついた肌。
そんな馬鹿な。
「鏡……! 鏡見せて!!」
メイソンが戸惑いながらも差し出した手鏡をひったくったビリーは、喰らいつくように覗き込み……そのまま床にへなへなと座り込んだ。
そこに映っていたのは、自慢の金髪を寝癖でくしゃくしゃにしたバルトだった。
脳天をハンマーで続けざまに殴られているような衝撃と頭痛が絶え間なく襲う。こんなことあるわけがない。夢だ、夢に決まってる……よりによって、よりによってバルト……こんなことならチュチュの方がまだましだった。思考回路は既に正常な機能を失っている。鏡に映っていたのがチュチュだったらそれこそ発狂したかもしれないのに、壊死しかけた脳細胞は微妙に冷静な判断を下していた。
バルトの手から滑り落ちた手鏡を拾い上げたシグルドは、自分の頬を真っ赤になるほどつねり上げながらあらぬ方向を見てぶつぶつと何事かつぶやいているバルトの肩を心配そうに揺すった。
「一体どうしたんです、若……まだ夢を見ているんですか?」
「………ない……」
「え?」
「……僕は……僕はバルトじゃないよ、シグルド兄ちゃん……僕だよ、ビリーだよ!!」
取り乱したように叫んでシグルドの肩にすがりつくのは、どこからどう見てもバルトだった。しかし、頬を伝う大粒の涙、澄みきった瞳、寝ぼけているにしてもふざけているにしても真に迫りすぎている。シグルドはカウンターから出てきたメイソンと顔を見合わせた。バルトがお世辞にも芝居上手とは言えないことは、二人が一番よく知っていた。すなわち、こんな上手な芝居をする彼は少なくともバルトではないのだ。
「……メイソン卿……」
「……しかし、ここにいらっしゃるのがビリー様なら……若は一体?」
メイソンの言葉に、シグルドの肩にすがったまま嗚咽を漏らしていたバルト――もといビリーは弾かれたように立ち上がった。
「そうだ……!」
自分がバルトになっているのなら、バルトは自分になっているのか。否、自分はビリーだ。バルトなんかじゃない。じゃあバルトはどこに行ったのか? バルトはビリーになったのか? それじゃ、ビリーは? もはや訳が分からない。転がるように螺旋階段を駆け下りて、最後の三段ほどを踏み外し、豪快に転げ落ちる。さっき廊下を歩いてきたときといい、平衡感覚がおかしいのは片目が見えなかったせいなのだと思い知らされて、ビリーは嫌というほど打ちつけた脛の痛みと絶望とで泣きそうになりながら自分――ここで言う“自分”はもちろん“ビリー”のことだ――に与えられた個室の扉にしがみついた。中からロックがかかっている。追いついてきたシグルドが、扉の横の壁にあるキーパッドの蓋を開けてマスターコードを打ち込み、ロックを解除した。
部屋の中には明かり一つ灯っていなかったが、今までいた場所も薄暗かったのと外からわずかな光が差し込んでいるのとで、様子を窺うのにそれほど難儀はしなかった。ベッドに誰かが横たわって、静かに寝息を立てている。ビリーはシグルドの背中にすがりついて、こわごわと中を覗き込んだ。シグルドの手が照明のスイッチに伸びて、部屋の中がぱっと明るくなる。
明るく照らし出されたベッドの上ですやすやと眠っているのは、他でもない、ビリーだった。
(バルトの姿をした)ビリーはふらふらとベッドに近づき、眠る少年を見下ろした。これは本当に自分なのか。ならば今この自分を見下ろしている自分は一体何なんだ。崩れ落ちるように床に膝をつき、震える手を伸ばす。
白くなめらかな肌は、蝋人形のようだった。いっそ人形であってくれればと仄かな期待を込めた指先は、柔らかく温かな頬に埋まった。
傍目には、眠れる森の美少年と王子様……少々倒錯しているが、なかなか美しい光景である。しかし問題は、王子様の中身が美少年であることと、美少年の中身が王子様かもしれないということだった。
(バルトの姿をした)ビリーは全身の力が抜けて床に尻餅をついた。
「ビリー、起き……いや、これは若なのか……? ……若? ……起きてください」
シグルドが首を傾げながら(中身はバルトかもしれない)ビリーを起こしにかかる。細い肩を幾度か揺すると、長い睫毛が震え、うっすらと開いた瞼の下から宝石のような美しい青緑色を湛えた瞳が覗いた。
「うぅん、シグ……? もう朝か……? もうちょっと寝かせてくれよ……」
声はビリーのものだったが、口調はバルトそのものだ。シグルドは後ろにいたメイソンと顔を見合わせてため息をついてから、横で真っ白に燃え尽きている(バルトの姿をした)ビリーの顔をそっと覗き込んだ。
「爺まで……なんだよ、俺、そんなに寝坊した…………!?」
ベッドの上で半身を起こしたビリー――もといバルトはそこで初めてベッドの脇に座り込んでいた(バルトの姿をした)ビリーに気づいた。大きな青緑色の瞳がさらに大きく見開かれ、一瞬後の絶叫を覚悟したシグルドとメイソンは両耳を手でさりげなく覆った。
「……すげぇ! 俺そっくりじゃん!」
しかし、(ビリーの姿をした)バルトが発したのは絶叫ではなく、おもちゃを見つけた子供のような嬉しそうな声だった。
「エメラダだろ? すげぇじゃねぇか。えらいぞー、よくできた!」
結構冷静な判断だ。もし逆の立場だったら――バルトになった自分の姿を見る前に自分になったバルトの姿を見ていたら、僕は同じように判断できただろうか? (ビリーの姿をした)バルトに顔や体をぺたぺた触られながら、(バルトの姿をした)ビリーはほとんど焼き切れた脳細胞でぼんやりとそんなことを思った。これはこれで結構冷静である。
だが、冷静に間違った判断をしても意味がない。シグルドはポケットから手鏡を取り出すと、(ビリーの姿をした)バルトにそっと差し出した。
「若……落ち着いて、これを見てください」
落ち着け、というのは無理というものだ。
今度こそ、断末魔の絶叫がユグドラシル中に響き渡った。

「ビリー!? どうした!?」
エマージェンシーコールさながらの悲鳴に真っ先に反応したのは、隣の部屋のフェイだった。ビリーの部屋に飛び込んできたフェイは、呆然と床に座り込むバルトと、乱れた寝間着姿でベッドに座るビリー、そばに立ち尽くすシグルドとメイソンを見て、この部屋で何が起こったのか、一般的な思考回路が辿り着く最大の可能性に一瞬で結論を直結させた。
「て……てめぇバルト! ビリーになんてことするんだ!」
バルトの胸元を掴んで吊るし上げるフェイを、シグルドが慌てて制する。
「待つんだ、フェイ君。これはその……君が思っている状況とは違うから」
「……え? そうなのか? でも今、ビリーのすごい悲鳴が……」
「実は……」
シグルドが説明しようとしたとき、エマージェンシーコールを聞きつけた人々が続々と部屋に集まってきた。
「ちょっと、すごい悲鳴が聞こえたけど一体どうしたの? あらフェイ、おはよう」
「ねぇ、ビリーさんどうかしたの? あっ、若……若が何かしたの!?」
「こんな早朝から一体何事です? 痴話喧嘩にしては騒々しいですね」
「ったく何だってんだ、うるせぇな……」
「何があったんですか!? 敵襲ですか!?」
「ビリー、どうかした……?」
「………?」
「おいおい、どうしたんだ? 悪い夢でも見たかぁ?」
寝起きの悪いフェイでさえ飛び起きたほどの悲鳴は、ユグドラシル中のクルーを叩き起こしてしまったらしい。ガンルームから機関室に繋がる廊下はたちまち野次馬でごった返した。
シグルドに助け起こされ、ベッドに座らされたバルト――もといビリーは、絶叫で体力を使い果たして肩で息をしているビリー――もといバルトを見るともなく見た。同じようにこちらを見ている青緑色の瞳と視線がぶつかって、なんだか頭が痛くなってくる。
そのとき、ジェサイアのコートの裾につかまってこちらを覗き込んでいたプリメーラが、とことこと二人の前に進み出た。ベッドで並ぶ二人を見比べて、迷いなくビリー(念を押すが、姿はバルトだ)のそばに寄ると、その胸にすがりつく。まるで慰めているかのように、よしよしと頭を撫でる。
あぁプリム、お兄ちゃんが分かるんだね。ビリーはプリメーラを抱きしめた。プリムが分かってくれるなら、僕はどんな姿だって構わない……とまでは思わなかったが、とても幸せだった。嬉し涙が頬を伝う。
「お……おい、プリム?」
プリメーラの(傍目には)異常な行動に、父ジェサイアを筆頭に居合わせた人々は目を丸くした。ここぞと機会を捕まえて、シグルドが状況の説明にかかる。その声を遠くに聞きながら、似ても似つかない兄妹はただ抱き合っていた。事情を聞いた人々が一斉に上げた驚愕の声に、遠のいていた五感が少しずつ戻ってくる。無遠慮に浴びせられる好奇の視線が痛い。
「そ、そんなことって……」
二人の一番近くにいたフェイが、幽霊でも見るような恐ろしげな顔で二人を見る。おずおずとかがみ込んで、プリメーラの肩口に顔を埋めていたビリーの顔を覗き込んだ。
「ほ……ほんとにビリーなのか?」
ビリーはプリメーラを放しながら頷き、顔を乱暴にこすった。
「僕も信じられないけど……残念ながら、本当みたい」
「僕……僕って言った……バルトが……って、ビリーなのか。あの、さっきは掴みかかったりしてごめん……」
「全くだぜ。妙な勘違いした挙句、人の体に乱暴すんなよな」
ベッドの上で茫然自失しているかと思われたバルトが突然悪態をついた。とはいっても姿も声もビリーだ。部屋の中にいた面々は、見目麗しく礼儀正しい少年神父のか弱げな――白い寝間着に包まれたその姿はあまりに無防備で、儚ささえプラスされていた――見た目と、その可愛らしい口から飛び出した乱暴な言葉とのあまりのギャップに、めいめい個性的なリアクションで驚きを示した。半信半疑だった一部の人間も、今の一言で信用せざるを得なくなった。シグルドがバルトのわがままに付き合わされて一芝居打つことは万に一つとはいえあったとしても、ビリーがそれをすることは絶対にあり得ないからだ。人間の中身が入れ替わることも常識的にはあり得ないはずなのだが、二人を知る人間にしてみればビリーがバルトの馬鹿げた悪戯に付き合うことの方がよっぽど不自然だった。
「男らしいビリーは、しおらしいバルトほどは不自然じゃないわね……」
「エリィ、突っ込むところおかしくないか……?」
「そうだよエリィさん。あんな乱暴な喋り方するの、ビリーさんじゃないよ」
「……マルーも……」
「だからマルー、俺はバルトだって……話聞いてたか?」
バルトがうんざりしたように割って入る。
「なぁ、一体どうなってんだ? 起きたらいきなり、よりによってビリーの奴と体が入れ替わってるなんて……こんな馬鹿なことってあるかよ」
「よりによって、はこっちの台詞だ!」
「……大変興味深いですね……」
そのとき、今まで黙って成り行きを見ていたかに見えたシタンが進み出た。
「ヒュウガ……原因は分かるか?」
「先生、先生なら何とかできるだろ?」
「シタンさん……」
助けを求める視線(せっかく面白かったのに、という残念そうな視線も一部含まれる)をスポットライトのように浴びて部屋の真ん中に歩み出たシタンは、真剣な表情でビリーとバルトを交互に見た。真剣な表情、というのは周りから見た印象であり、見られている二人は実験動物を眺める研究者の目をそこに見て、背筋が寒くなった。
「原因……そうですね。二人とも、寝る前までは異常はなかった……昨日のことを覚えていますか?」
「昨日はビリーのギアがアニマの器と融合して、エレメンツをぶっ倒して……それでユグドラに帰ってきたんだよな。そういえば、ビリー……お前……」
ビリーが乱暴な口調でビリーの名前を呼びながら、バルトの顔を覗き込む。なんておかしな光景だ。かがんでいたフェイは目眩を覚えて、床に尻をついて座り込んだ。
「……僕、アニマの器の部屋に入ったあたりから……記憶がぼんやりしてる」
ビリーは頭を押さえた。圧倒的な力の渦に押し流された、あの瞬間の感覚が蘇ってくる。快感のような、不快感のような……体の中を隅々までかき回されるような、そんな感覚。
「ビリーの意識が朦朧としてて、私たちが外まで運んだの。そのままここに運んできて、寝かせたのよね」
「すやすや寝息を立ててたから、大して心配はしてなかったんだけど……先生も言ってたよな、ちょっとグロッキーなだけだって」
エリィの言葉を継いだバルトのすがるような視線を受け、シタンは頷く。
「寝ていたのによく聞いていましたね、ビリー」
「……!!」
「冗談ですよ。私が思うに、これは……ビリーのエーテル能力ではないかと」
「エーテル? ……僕の?」
「ええ、そうです。……ビリー、あなたは昨日アニマの器と同調した。言ってみればゾハルの力の一端が流れ込んだのです。エーテル能力というのは、ゾハルにアクセスし事象変異を起こす能力……理論上は、どんな現象だって起こせるのですよ。ゾハルを突き動かすだけの強い想いがあればね」
ゾハルって何? 居合わせた人々の頭上にはクエスチョンマークが浮かんだが、ビリーはそれどころではなかった。
「ちょっと待って……それじゃあ、これは僕が望んだことだっていうんですか!? バルトと入れ替わることが!?」
「もしかしたら、若くんの方も望んでいたのかもしれませんねぇ。変身ではなく、入れ替わったということは」
「そんなわけあるか!!」
ボーイソプラノとハイバリトンが美しいハーモニーを奏でる。シタンはその指揮を取るようにひらひらと手を振って、まぁまぁ、ととりなした。
「これはあくまでも仮説でしかありません。私もこんな現象を見たのは初めてですからね。そうなんでもかんでも解決できるわけではありませんよ」
「……ちぇ、エセ科学者……肝心なとこで頼りになんねぇなぁ」
「結局、僕らはどうすればいいんですか……?」
毒づくビリーと泣きそうなバルト。ああ、なんておかしな光景だろう。フェイは再びため息をついた。
「そうですねぇ、こればっかりは……元に戻るように祈る、しかないですかねぇ……」
シタンは間延びした口調で歌うように言った。見上げる二人の殺気が言葉に変わらないうちに、素早く続ける。
「今言った仮説が当たっているとすれば、どっちみちそれしかないのですよ。能力の発動はあなたたちの気持ちにかかっているわけですからね。しかし、我々は一刻も早く次のアニマの器を手に入れなければならない。あなたたち二人も大事な戦力なのですから、ここに籠ってのんびりされても困ります。どんな姿であろうと動ける以上戦力になってもらわなくては。体は思うように動きますか? いつ元に戻れるか分かりません。慣れてもらいますよ」
「……ヒュウガ……」
あまりに無慈悲な言葉にシグルドが何か言おうとするが、結局口をつぐんでしまう。シタンの言っていることがいちいち正論であることは、そこに居合わせた者は皆、感情では受け入れられなくとも、理屈では理解していた。
ビリーは深くため息をついて、目の前に両手を広げた。骨ばった長い指。起きたときほどの関節の軋みはなくなったが、やはりどこか違和感がある。“慣れない体”だからだろうか。
バルトを見ると、肩が凝ったときのように首と肩をぐるぐると回している。ビリーの視線に気付くと、大仰に頷いてみせた。
「確かに、そうするしかねぇみてぇだな。目も覚めたし、ちょっくら体動かしてくるか」
そう言うなり何の躊躇いもなくがばっとたくし上げた白い寝間着の裾を、ビリーは無言のまますごい速さで引きずり下ろした。
「何だよ、邪魔すんなよ!」
「いきなり何してるんだ、君は!!」
「何って、着替えるに決まってんだろ。こんなかっこで外出ろってのか?」
「人前で着替えるやつがあるか! みんな見てるのに……」
「男同士で何恥ずかしがってんだよ。減るもんじゃあるまいし」
「お、女の人だっているだろう! っていうか、男同士だって、人前で着替えるな!!」
露になったビリーの上半身を一瞬とはいえ目の当たりにしたユグドラシル女性陣……に限らず、部屋にいた人間は皆例外なく興奮状態で目を皿のようにしている。そんなに刺激的なもんなのか? バルトは寝間着のゆったりした襟首を引っ張って、中を覗き込んだ。無駄な贅肉も筋肉もついていない薄い胸板は陶器のように白くなめらかで、とても綺麗だと思った瞬間、ビリーに喉元を締め上げられる。
「な、何見てるんだよ馬鹿……!!」
「ど……どうせ着替えるときには見るんだから同じだろ……! つーか、お前、少し……手加減しろよ、自分の体なのに……!!」
豪快に着替えようとするビリーと、それを必死に諌めるバルト。相変わらずおかしな光景だが、なんだか微笑ましく見えてきた。ベッドの脇に座り込んだまま、フェイは悟り切ったように微笑んでいた。
「さあさあ、それではビリー君が心置きなく着替えられるように、部外者は外に出ていましょうか。そろそろ夜も明けるようです。少し早いですが、朝食にしましょうかね」
シタンの号令で、人々は名残惜しそうにぞろぞろと部屋を出ていった。何故お前が仕切っているんだ、ヒュウガ……シグルドはため息をつきながら一番最後に戸口に立つと、ベッドの上の二人を振り返った。
「あまりビリーを困らせてはいけませんよ、若……」
残された二人は、自然に顔を見合わせた。バルトは鼻を鳴らして、ベッドから立ち上がったビリーを見上げた。
「……着替えていいですか?」
少しサイズの大きい寝間着をまとい、唇を尖らせて上目遣いで見上げるその姿は色々な誤解を招くには十分だったが、幸いビリーにとっては自分の姿なのでそっちの感情は全く湧かなかった。代わりに頭痛がこみ上げ、額に手を当てて俯く。
「……立って、僕が着替えさせる」
「……はあぁあ!?」
「君は、目つぶってて。見たら撃ち殺すから」
「……お前、そんなに裸見られんの嫌なのか? つーか、殺しちゃ駄目だろ……自分なのに」
「仕方ないだろ、……恥ずかしいんだから!!」
裸を見られたことがないわけではないが、シャワールームで何度か出くわした程度だ。避けられるものなら避けたかったし、何より自分で隠すことができないのは痛手だった。
男同士で恥ずかしがることなんかないはずなのに。
何なんだ、この状況。
「なんか、気持ちわりぃなその台詞……自分に言われると」
「いいから、目ぇつぶってろ!!」
ビリーはほとんどやけくそで棚の上にきちんと畳んで置いてあった着替えの中から聖服のリボンを引っ張り出すと、バルトの頭にぐるぐる巻きつけた。
子供を着替えさせる要領でやればいい。余計なことを考えないように自分に言い聞かせながら、目隠しをされた弾みでベッドに尻餅をついていたバルトに万歳を指示する。余計なことって何なんだ。頭が痛い。
「あのさぁ、ビリー……これ、傍から見たらかなりヤバい絵だと思うんだけど……」
たくし上げられた寝間着がちょうど手錠のように両手を拘束する位置まで(それも万歳をしたまま)来たところで、バルトがその「余計なこと」をずばりと言ってのけたからたまらない。ビリーは拳を固めてバルトの脳天に振り下ろした。
「何言ってんだ馬鹿!!」
「……!! だ、だから手かげ……しろ、って……!! 俺の体、動かしてんだぞ、お前……!」
ベッドに倒れ込んで悶えるバルトの尋常ならない痛がり方に、ビリーは我に返った。そうだ、今僕はバルトなんだ。腕力は彼のもの、拳骨で思いきり殴ったりしたら、僕の頭が……! 咄嗟に頭に浮かんだのはバルトの心配ではなく、入れ物――自分の体の方の心配だった。
「だ、大丈夫……!?」
バルトを乱暴に助け起こしてその頭に手をかざすが、回復エーテルは発動しない。
「ど……した……?」
「……治せない」
「へ? ……エーテルが使えねぇってことか?」
「うん……」
「……じゃあ、俺が使えるようになったのか?」
バルトは片手で殴られた部分をさすりながら、もう片方の手をそこにかざした。
「…………」
「…………」
「………………どうやって使うんだ?」
やっぱり駄目か。ビリーはため息をついた。
「……殴るのは控えるよ」
「いや、そういう問題じゃ……まあいいか」
「……銃、撃てるかなぁ……? 片目だし。エーテルガンも使えないのかな」
「俺はこの細腕で鞭振るうのか……? 一部の人間が喜びそうだ」
「何?」
「なんでもないです」
「ギアなら、それほどの弊害はないとは思うけど……あ、でもバーラーだ。体と中身、どっちが優先されるんだろ」
「……とりあえず、着替えてから確認しに行こう。服くれよ、見えなくてもできるから」
バルトは両手を拘束していた寝間着を振りほどくと、ビリーに向かって手を差し出した。
ビリーはその手の上に着替えを乗せてやり、目隠しに隙間はできていないか、バルトの動作に目を光らせていた。
シャツに袖を通すバルトのぎこちない仕草を見ながら、バルトが昨夜普段着のまま寝てくれてよかったとしみじみ自分の体を見下ろす。後はあの赤いジャケットを羽織るだけだ。今日寝るときはどうするのかとか、それ以前にシャワーのときはどうするのかといった問題は頭の中から綺麗に抹殺されていた。
「よっこらしょっ、と……」
若者にあるまじき掛け声を掛けながら、ズボンに足を通したらしいバルトが立ち上がる。すぐ横に立っていたビリーは、自分の目線の高さに改めて驚いた。ビリー(の姿をしたバルト)の身長はバルト(の姿をしたビリー)の顎くらいまでしかなくて、ビリーにはクリーム色の頭のてっぺんにあるつむじがはっきり見えた。
左巻き。ああ、ひねくれ者。
バルトからは、僕がこんな風に見えるのか。
着替え終わって目隠しのリボンを外したバルトも同じことを思ったらしく、ビリーを悪戯っぽい目で見上げる。
「結構背ぇ高いんだな、俺」
「……君から見ると小さいね、僕」
ユグドラシルの乗員は副長シグルドを筆頭に背の高い人間が多く、それまでそれほど気にしていなかった低めの身長がここに来て以来新たなコンプレックスになっていたビリーは、相対的に背が低いのだと強調することを忘れなかった。バルトはバルトで、シグルドと比べたらまだまだ背が低いと思っていた自分も、ビリーから見れば見上げるほどの身長があることにかなり満足している様子だ。
ビリーは小さく鼻を鳴らしながら、着替えと一緒に置いてあったガンベルトを取り上げた。
「君の鞭も取ってこないとね」
毎朝の習慣だ。着替えたらすぐガンベルトを腰に巻く。目をつぶっていたってできる。しかし、今日は勝手が違った。
「……嘘……」
普段は三つあるベルト穴の真ん中を使っているのだが、一番ゆるい穴にすらバックルが届かない。無理もなかった。二人のウエストのサイズは十センチ以上違うのだ。ガンベルトはエトーンになったとき『教会』から支給されたもので、ビリーの体型に合わせて作られており、サイズの調整はできない。
「……新しい穴、空けるしかないな……メイソンさんにアイスピック借りよう」
「……つーことは、俺のベルトはゆるいわけだな……どうしよう。調整できねぇぞ、あれ」
ベルトはとりあえずベッドに放り投げて、棚の脇に置いてあった三挺のライフルに目をやったビリーは、あっと声を上げた。
「……銃、しまう場所がないや……」
青緑色の聖服を羽織りかけていたバルトは、動きを止めて服をめくった。その裏には、銃や弾を収めておくポケットがいくつもある。エトーンの聖服は、何挺もの銃を持ち歩く彼らの戦闘スタイルに合わせ実に機能的に作られた服なのだ。
「……これ、着るか?」
「……無理だと思うよ、サイズ違いすぎるし。……今日は、リボルバーだけで何とか凌ぐ。……君も、鞭を手に持って歩くことになりそうだけど」
鞭を片手にぶら下げて歩くビリーのなかなかに危険な姿を想像した二人は、顔を見合わせてため息をついた。
「……なんて、不便なんだ……」

バルトの発したエマージェンシーコールのおかげで、普段よりも三時間近く早い時間だというのに、食堂は活気に溢れていた。
洗顔を済ませて食堂に現れた二人を、クルーたちの好奇の視線が取り囲む。ビリーはため息をつきながら、トレーに普段通りの朝食――サンドイッチと紅茶、と大体決まっている。食欲があるときはこれにサラダがつく――を載せてバルトのほうをちらりと振り向き、トレーを危うく床に落としそうになった。
バルトは明らかに積載オーバーのトレーを片手に、デザートのフルーツをわし掴みしようとしていた。それは確かに彼の普段通りの朝食なのだが、どう贔屓目に見てもビリーの胃袋に収まる量ではなかった。
「……バルト……」
「あん?」
「君さ、体は僕なんだって忘れてない……?」
「忘れるわけねぇだろ。これでも随分控えめなんだぞ。お前こそ、そんな量じゃ足りねぇって。俺動かすのに」
変な会話だ。機体を交換したギアパイロットが燃料の量でもめているみたいだ。どちらの言い分も一部は正しいと思った二人は、とりあえずそのままテーブルについて食事を始めた。はたして、ビリーがサンドイッチを平らげた頃、バルトはフォークを置いた。
「……確かに、入んねぇ……」
「だから言っただろ。……僕が食べるよ」
「やっぱ足りねぇだろ?」
「………」
「大体、お前はいっつも食が細すぎるんだよ。ちったぁ食う楽しみってやつが分かるだろ。俺のおかげだな」
「君は燃費が悪すぎるんだよ……」
小食なバルトと大食いのビリーを見ることができなかったクルーたちは少し残念そうにしている。隅の方のテーブルでは賭けまで発生しており、悲喜こもごもの声が二人に聞こえないように飛び交っていた。
そんなことには気づかないビリーは、二つ目のつちのこハンバーグをもぐもぐ食べていた。朝からハンバーグ。頭より体を動かす方が多い男所帯のユグドラシルでは当たり前のメニューなのだが、ビリーは朝からそんな匂いをかがされるだけでも胃もたれしそうでいつも閉口気味だった。それが今は二つ目だ。夜だってこんなに食べられないのに。まだいくらでも入りそうで自分の腹が恐ろしい。ああ、バルトの腹だっけ。
バルトはそんなビリーを恨めしそうに見ている。
「くそ、なんか物足りねぇのに腹は一杯だし……元に戻ったら、たらふく食ってやる」
とはいえ、ビリーが普段食べる量の倍近くは食べている。これが続いたらあっという間に太ってしまうんじゃないか、と心配になったビリーは、普段の自分の不健康なほどの食の細さは棚に上げて、心の中で誓った。
一刻も早く、元に戻ってやる。

食事を済ませると、二人はまっすぐギアドックへと向かった。緋色の巨人と蒼い処刑人――アンドヴァリとレンマーツォは、隣り合ったハンガーに静かに佇んで主を待っていた。彼らは中身の入れ替わってしまった主を受け入れるのだろうか? ハンガーの周りにはすでにギャラリーが集まり、例によって賭けも発生している。それどころではない二人は、大急ぎでコクピットに乗り込んだ。
バーラーには操縦桿はない。起動準備を全てクリアしたバルトはシートの肘掛の上で手を握って目を閉じ、ほとんど祈るように念じた。
――動け。
緋色の巨人は沈黙したままだった。バルトは泣きそうになりながら目の前のコンソールを叩いた。
「……くそ! 動けよっ!!」
そのとき視界の端でいきなりレンマーツォの腕が虚空ににゅっと突き出されて、バルトはびっくりして立ち上がり、スクリーンにすがりついた。
「ビリー、そっちは動いたのか!?」
『……駄目、言うこと聞いてくれない……そっちも?』
「くっそ……マルーだって動かせたのに、ビリーのかっこの俺はだめなのか?」
『……複雑だね……』
手動で動かすアーサーなら、パイロットに合わせてきっちり組んである操作系に初めは腕や足の力の違いのため馴染めなかったとしても、動かすことはできるだろう。バーラーになったことがかえって裏目に出るなんて、とビリーはため息をついた。
「エーテルも発動しなかった……今の僕たちは、バーラーと繋がる手段そのものがなくなっているか、極端に弱まっているってことなんじゃないかな。だとすると、乗り替わっても多分同じ……」
『大体、乗り慣れない機体じゃかえって危ないだろ。戦闘スタイルも違いすぎるしな』
「……そうだね」
『仕方ねぇな、ディルムッド出すか……?』
「君はともかく、僕は少し練習させてもらわないと動かせないよ……それに、慣れない僕らが動かすくらいなら、ユグドラシルのギア部隊の人に任せればいいじゃない」
『全くだな……』
名案も出そうになかったので、二人はそれ以上考えることを潔く諦めた。バルトは切り替えの速さに関しては才能とも言えるほどの素晴らしさを見せるが、体が入れ替わって少し影響を受けているのかもしれない、とビリーは妙にさっぱりした頭で考えながら、ギアから降りてきたバルトを引っ張ってドックの片隅へ向かった。
申し訳程度に造られた射撃の訓練場は、ビリーがユグドラシルに乗り込んで以来彼の聖域となっている。銃を使った白兵戦はめったにしないユグドラシルにとっては、普段ほとんど誰も利用しない場所を占領されたというだけで、何の不都合もなかった。占領といっても、請う者がいればビリーは分け隔てなく迎え入れてはその持てる知識と技術を惜しげもなく教授していて、最近訓練場は賑わっている。その割に技術の向上が見られないのは、訓練場に足しげく通うほとんどの者たちの目的が技術の向上とはおよそかけ離れたところにあるからだ。当のビリーは気づいていないであろうだけに、バルトは常々心の端っこで苦々しく思っていたが、それはこの際どうでもいい。
ガンベルトを腰に巻いた砂漠の王子が、手の大きさに対していささか小さく見えるリボルバーを構える。鞭を携えた普段の姿は野性味さえ感じさせる荒々しさを纏っているが、持っているのが拳銃になっただけでそれが気品に変わっているから不思議だ。二人を取り囲んだクルーたちは初めて見る光景に改めて目を丸くした。隅っこで発生している賭けは、ビリーの腕前はバルトの姿でも遺憾なく発揮されるかどうか、つまりは的に当たるか当たらないかというものだろう。
銃声。普段よりずっと小さい反動に少し驚きながらも、ビリーの表情は苦々しかった。弾痕は的の中央から十センチほど右に外れている。当たったじゃん、というバルトの声をかき消して、三発の銃声が轟いた。続けざまに撃ち出された銃弾は一発ごとに的の中央に近づき、最後の一発は見事にど真ん中を貫いた。
おお〜、と驚嘆の声が上がる。
「一つとはいえ視力良くてよかった、君の目。だけどやっぱり、片目じゃ遠近感が掴みづらいな……少し慣れておかないと」
ビリーはぶつぶつ言いながらも残りの二発を正確に的の真ん中に撃ち込み、涼しい顔で薬莢を床に落としながらバルトを振り返った。完璧なパフォーマンスに素直に感嘆していたバルトだが、期待の視線が自分に集中していることに気づいて少し慌てる。期待の意味がどうも違うようだが、こだわっているほどの余裕はなかった。ギアを動かせなかった今、鞭も振るえなかったら、元に戻るまでの間役立たずの烙印を押されてしまう。
鞭、といっても武器として使用するバルトのそれは鉄線などが編み込まれていてほとんどワイヤーに近い。重さも相当なものだ。結びを解いて両手で垂らすと、普段は感じない負荷がずしりとのしかかってくる。
もうちょっと鍛えろよな、という悪態の直後、静かだったドックの空気が鋭く切り裂かれた。鞭の先が壁の鉄板を打つすがすがしいほどの音が続けて響き渡る。美貌の少年が華麗に鞭を操るその姿は、戦っているというよりも舞台上で踊る妖艶な踊り子のようで、異様な興奮に包まれたギャラリーの中からは歓声が沸き起こった。その意味を勘違いしたバルトは最後に一発大袈裟なモーションで壁を叩き、息を切らせながら動きを止めた。
「……へへっ、鞭は腕力だけで振るもんじゃねぇってな。……やっぱちょっと重いけど……もっと軽いやつ探してこよう」
「いやはや、二人ともお見事でした」
そのとき、シタンがわざとらしくパチパチと手を打ちながらギャラリーをかき分けるようにして歩いてきた。舞台の踊り子に拍手する成金親父みたいなこの胡散臭さは何だろう。二人はいかにも嫌そうな目つきでシタンを見返した。
「鞭がとても似合いますねぇ、ビリー」
「……!!」
「冗談ですって。ギアは動かせないようですが、生身でならそこそこ戦えそうですね」
「何とかな」
では、と成金親父はもったいぶった仕草で人差し指を立ててみせた。
「今日はアニマの器がある可能性が高いと思われる遺跡を調査しに行くのですが、遺跡の規模から言ってギアでの行動が主になりそうです。あなたたちを連れていくことはできません」
「……それで?」
「代わりに、昨日の遺跡の後始末をしてきてほしいのです。あそこには小規模ですがデータベースがありました。昨日はアニマの器の回収を最優先したのでそちらを調べることができませんでしたから、あなたたちにデータを引き上げてきてもらいたいのですよ」
「なるほど」
「回復要員としてフェイを同行させます。三人いれば十分でしょう」
シタンの言葉に、ビリーが眉をしかめる。
「でも、そちらは大丈夫なんですか? ヴェルトールなしで」
新たにシステムイドを搭載したセカンドの戦闘能力は相当なものだ。アンドヴァリもレンマーツォも出られない今、ヴェルトールを外すことはかなりの戦力低下になるはずだったが、シタンは余裕の表情で首を振った。
「私とマリアがいれば大丈夫ですよ。ゼプツェンはバーラーに勝るとも劣らない戦闘能力を持っていますしね」
言外に含まれた自分のギア――フェンリルの能力への自信に、二人はほんの少し苦々しさを覚えたが、尊大だとは思わなかった。恐るべき攻撃力を誇る太刀を携えたギア・バーラーは、ソラリス守護天使と称えられたパイロットによりその高い戦闘能力を最大まで引き出されている。出力や装甲値など部分的には他のギアに劣るところがあったとしても、総合的な能力ではおそらくユグドラシルで最強だと誰もが認めていた。
「どの道データの引き上げには誰かが行かねばなりません。我々には全ての目的に十分な戦力を割くだけの余裕は与えられていないのです」
断ずるシタンの言葉には、有無を言わせぬ説得力があった。

「なんだよフェイ、ため息なんかついて。幸せが逃げるぜ」
「……いや、なんでもない……」
「ごめん、フェイ……僕ら、ギア出せなくって……」
「いいんだ、……ビリー。しっかりつかまっててくれ」
フェイは憂鬱そうな表情で操縦桿を握っていた。ビリーに乱暴な口調で話しかけられるのには、相変わらず慣れることができない。これがユグドラシルの中で、誰か合いの手を入れてくれる人間がそこにいれば笑い話にもできるけれども、その人間が礼儀正しいバルトでは洒落にもならない。ただでさえこの二人は顔を合わせれば喧嘩ばかりして、間に挟まれた自分がいつも仲裁に入る羽目になるというのに、今回はさらに特殊な状況だ。何をしでかすか分かったものではない。フェイはもう一度大きくため息をついた。
ビリーと同調したアニマの器が見つかった遺跡は、まるで巨大な斧で大地を断ち割ったような裂け目の底にある。急な斜面を滑り降りたヴェルトールは、コンテナの間を縫うように進むと、地面にひざまずいて動きを止めた。三人の若者は狭苦しいコクピットから一時間ぶりに解放され、地面に降り立つ。
「くあー、シートの後ろがあんなに窮屈だとは……なぁフェイ、帰りは俺に操縦させてくれよ。体中痛くて仕方ねぇ」
バルトが大袈裟に体をひねりながら、おねだりの仕草をする。中身もビリーだったら言うこと聞いてやってもよかったのに、とフェイは頭を押さえた。乱暴な口調では可愛さも半減だ。
「馬鹿言うな、自分のギアも動かせなかったくせに」
「あー、ひでー! あれはバーラーだからだよ。ヴェルトールだったら、操縦桿あるじゃねぇか。一度操縦してみたかったんだよなー」
「いい加減にしろよ、バルト。今の君は、この中で一番体小さいんだから。代わってほしいのは僕だよ……」
長い足を折り畳んで狭い隙間に収めておくのは楽ではなかったらしい。ビリーはしきりに屈伸をして、思い切り体を反らせた。体が小さい、というのも今(だけ)はかえって羨ましいのか、タブーではなくなっているようだ。
「……さあ行くぞ、二人とも。今日はいろんな意味でかなり戦力ダウンしてるんだからな。さっさと済ませよう」
「……はい」
いつになく棘のあるフェイの言葉に、バルトとビリーは素直に従った。
かろうじて動いている小さな警備用ロボットと、どこからか紛れ込んだらしいモンスターを退けながら、三人は順調に奥へと進んでいった。遺跡の規模はそれほど大きくなく、昨日一度は踏破した場所である。目的とするコンピュータールームまでたどり着くのに、さほど苦労はしなかった。
手慣れた様子で端末を操作するビリーを見て、フェイが苦笑する。
「やっぱ、似合わないな。機械に弱いバルトが、すいすい操作してる」
「人のこと言える立場かよ、お前!」
バルトが聖服を翻してフェイの太ももに回し蹴りを食らわせようとしたが、フェイはこともなげにかわした。
「はしたないぞ、ビリー」
「……!! てめぇまで……!!」
「フェイ、後で覚えといてね」
「……すいません」
ビリーは満足げな笑みを浮かべ、二人を振り返った。
「シタンさんに教わったら? 喜んで教えてくれると思うよ」
「……遠慮しとく」
肉体労働が専門の二人は、いかにも嫌そうに揃って首を振った。これはこれでバランスが取れていていいのかもしれない。頭脳労働担当のビリーは肩をすくめた。担当、といっても肉体労働もせざるを得ないことを考えると、少々不公平な気がしないでもないけれども。
「どれくらいかかる? 時間」
「一時間、とは言わないけど。しばらくかかると思うよ」
「そっか……」
フェイはモニターの前にしゃがみ込み、隅に表示されたデータ転送の進捗状況を示すバーをじっと見ていたが、十秒もしないうちに飽きたらしく、立ち上がって伸びをした。
「うーん、やっぱつまんないや……俺、あっち見てくるよ」
そう言って部屋を出ていく背中とモニターとを見比べて、ビリーは苦笑した。このバーが何か面白い動きをするとでも思ったのかな? フェイだから苦笑で済むが、バルトがそんなことを言ったら足を踏んづけてやるところだ。それは日頃の(主にビリーに対する)行いの差というやつだ。
まさか言い出さないだろうな、とバルトを見ると、置いてあった椅子にどっかりと座り込み、神妙な表情で虚空を睨んでいる。ビリーがもう一つの椅子に座ってそれを見ていると、しばらくしてはっとしたようにこちらを見た。
「……うん?」
「どうかした? ぼんやりして」
「いや……」
バルトは大きくため息をつくと、ビリーの方を向いて座り直した。古びた椅子が軋む。
「元、戻らねぇなぁ……と思ってさ」
「……うん……」
コンピューターの動作音は、とても小さい。部屋は静かだった。ビリーは俯いて、膝の上で開いた手のひらを見つめた。
大きな手だ。指は長く、いつも鞭を握るせいか、手のひらの皮は厚くてしっかりしている。
手は、人間の体の中でも一番芸術的な形をしていると思う。どの角度から見ても、どんな風に動かしても、美しい。ビリーは自分の手が好きだった。いくら銃を握っても固くならない手のひらも、色の白さも指の細さも女性の手のようで忌々しかったけれども、全体的な形はとても気に入っていた。
バルトの手も、綺麗な形だ。輪郭は男性らしく骨ばっているが、かといってごつごつしすぎているわけでもなく、どこか優雅さがある。
「慣れてはきたけど、やっぱり不便だよね……他人の体は」
「ああ、確かに。非力で鞭は重いし、背は低くて高いとこ見えないし、手足は冷えるし……飯は食えないし」
バルトが羅列したのは常々感じていたコンプレックスの部分で、むっとして言い返そうとしたビリーは、言葉を飲み込んだ。
この現象は自分が起こしたものだと、シタンは言った。
自分がバルトと入れ替わることを望んだのだと。
そんなはずない。そう思いながらも気づいていたじゃないか? 心の奥底では、憧れていたこと。
自分にないものを持っている彼に。
バルトみたいに背が高かったらいいな、バルトみたいに腕力があったらいいな……ほんのちょっとそう思っただけ。入れ替わりたいと思うほど切実に願ってない。本当に?
いや、そうじゃないんだ。切実に願ったのは、きっともっと別のこと。
「君は、嫌だろうね……僕の体なんか」
ビリーは俯いたまま椅子から立ち上がると、顔をそむけた。バルトはようやく失言に気づいたらしく、しまったという顔で立ち上がる。
「あっ、いや……そういう意味で言ったんじゃねぇんだ……えーと……」
心底困った顔でわしわしと頭をかきむしる。くしゃくしゃにするなよ、人の頭。
「あー……お前は、このまんまでいいんだよ。非力でも、細くっても、冷え性でも……」
「……フォローになってない、バルト」
「……分かってる。最後まで聞けって。俺は、その方が……そういうお前が……」
言葉の最後の方はフェードアウトして、「……がいがあるっていうか」しか聞こえなかった。ビリーは眉をしかめてバルトにまっすぐ向き直った。
「何だって?」
「いや、だからさ。元に戻りたい。その方が、お前を……非力で、細くてちっちゃいお前を……」
バルトが言いかけたとき、その背後で嫌な機械音がした。
この遺跡に入ってから何度となく聞いた音だ。その正体はすぐに分かった。
「バルト!!」
そちらを振り向いてすぐ飛びのくかと思われたバルトは微動だにせず、一瞬後甲高いレーザーの発射音が部屋の空気を切り裂いた。ビリーは体を横に投げ出しながらバルトの向こうの入り口から入ってきていた警備ロボットに狙いを定め、続けざまに撃ち込んだ。狙いは違わず、六発の銃弾をまともに浴びた警備ロボットは煙を噴いて動きを止めた。
「バルト! 何やって……」
ビリーの非難の声はすぐに途切れた。青緑色の聖服が赤黒く染まっている。バルトは崩れるように床に膝をつき、荒い息を吐いた。
「痛って……悪い、傷つけちまった……お前の体……」
「な……大丈夫!? フェイ! フェイっ……!」
ビリーは大声でフェイを呼びながら、バルトを仰向けにさせた。血に染まったシャツを乱暴にたくし上げる。幸いレーザーは脇腹を掠めただけのようだが、傷は大きく、出血はかなりある。
「よける暇、あっただろ……! なんで……」
「……さっき言いかけた続き」
「え?」
バルトは口元を引きつらせながらも、にやっと笑った。
「こんなときも……元の体の方が、心置きなくお前を……護ってやれるだろ?」
「……!」
「非力で、細っこいから……護りがい、あるしな。お前は、俺に護られるほど弱くなんかないって、ほんとは……分かってるけど」
僕は君に護られるほど弱くなんかない。ビリーの反論に先回りするようにバルトは言って、付け加えた。俺が、見たくないだけなんだ。お前が痛い思いとかするとこ。
「……馬鹿……言うな……!」
声が掠れる。胸が甘く痛む。
「……自分に言われても、全然嬉しくない……」
――君に言われたら、嬉しい。
君の口から聞きたかった。自分を映す碧い瞳を見て、聞きたかった。そんな言葉。
「俺も、自分に膝枕されても全然嬉しくねぇ……元に戻ったら、またやって……」
軽口が途切れ、バルトはうめきながら体を折り曲げた。
「バルト!!」
エーテルが使えれば、すぐにでも痛みを取り除いてやれるのに。今ここで苦しんでいるのは、本当は自分だったはずなんだ。代われるなら代わってやりたい。元に戻れれば。戻れれば!
世界が、大きく歪んだ気がした。
最初、何が起きたのか分からなかった。目の前に、バルトの顔が――今朝鏡を覗き込んだときにあった、ハニーブロンドの王子様の凛々しい顔が、そこにあった。驚いたように見開かれた深い碧色の瞳に、いつも通りの自分の顔が――病的に白い肌も、細い顎も、黒目がちで大きな瞳も女の子のようでコンプレックスの元でしかないけれども、それでも愛着のある見慣れた顔が映っている。
脇腹に焼けつくような痛みを感じて、ビリーは我に返った。反射的に手をかざすと、手のひらから溢れ出た青白い光が、みるみるうちに傷を癒していった。
「……!!」
「……ビリー、元に……」
強烈な頭突きを顎にまともに喰らって、バルトはのけぞった。しゃにむに抱きついてきたビリーの腕が首に巻きつく。
「よかった、バルト……」
「びっ、ビリー……あぁ、傷は? 治せたのか?」
ビリーが腕を緩めないので、バルトは手探りでビリーの脇腹を調べた。血に濡れてはいたが、傷は綺麗に消えていた。
「……ごめん……ありがとう、バルト……」
その声は涙混じりに聞こえた。こういう場合は……ガシッとやっていいんだよな? ……よし。
決意すれば行動に移すのは速い。バルトは「ビリー……」と囁きながら、その細い体に腕を回そうとした。その瞬間、フェイが息せき切って飛び込んできた。
「二人とも、大丈夫か!?」
途端にビリーはバルトからひらりと離れ、かがみ込んだフェイに飛びついた。勢いに負けたフェイは尻餅をつき、首に巻きついたビリーの腕を大慌てで剥がしにかかった。
「なっ……何すんだよ、……バルト!」
何じゃねぇだろ、フェイ……前に俺がふざけて同じようなことしたときには無言で鳩尾に蹴り入れたくせに……中身が俺だと思ってても見た目がビリーだとそれか。バルトは心の中で悪態をついた。
つーか、何してんだビリー。
「フェイ、やったよ!! 戻ったんだよ、元に!!」
「え……ほんとか!? じ、じゃあお前、ビリー……!?」
半信半疑の視線を受けて、バルトがうんうんと頷いてやると、フェイはしばらくあっけに取られたように目をしばたたいていたが、やがて落ち着きを取り戻したのかバルトを見て当てつけがましくにやりと笑い、首にぶら下がったままのビリーをぎゅっと抱きしめ返した。
「よかったな、ビリー!!」
「うん!!」
バルトは床に座り込んだまま、呆然とそれを見ていた。
俺だから抱きついたわけじゃねぇのか……ビリー。そりゃないぜ。
……照れ隠し、って思っておいていいのかな?
なんでも都合よく考えるのは、俺の得意技だからな。

それから幾日かの間、ユグドラシルでは二人の名前を呼ぶ語尾に「?」がついたことは言うまでもない。

>>BACK
>>INDEX



作者の懺悔

長っ!! 長いなオイ!! 軽いノリのギャグのつもりで書き始めたら楽しくていつの間にかこんなことに…(笑)長さの割にすごいスピードで書き上げました。この時点ではゾハル云々はみんな知りませんので…ギャグです。でも先生は知ってそうですね。先生ファンの方ごめんなさい。扱いひどいです。
若はこの時点では既に王子じゃなくて王なのですがやっぱり王子の方が似合うよね…つーか声!! テノールじゃ高い気もするしバリトンじゃシグだし…と思ってハイバリトン。怪しい。
手の形が云々のくだりは私見です。手ってキレイだと思いませんか?
初めはバルビリにするつもりなかったのに気づいたらバルビリ色が濃く…二人のやり取りとか、前半と後半の温度差が微妙にありますね。