universal gravitation その夜、海は凪いでいた。 天高く上った満月は、まるで眠っているかのような水面に惜しげもなく光を注ぐ。 かすかな風が作るさざ波の小さな凹凸に吸い取られ、静かに見えた水面の下で複雑に絡み合う海流に散らされて、霧雨のように存在を弱めた光は、海底近くを滑るように行く巨大な鯨の背中を優しく撫でた。 あまりにも不揃いで、拙くて、危うい“希望”を腹に抱えた鯨の背中を。 潜水艦ユグドラシルの内部は、とても静かである。分厚い隔壁が機関部分を騒音ごとしっかりと覆い隠し、優れた航行システムは、振動だの衝撃だのといった不快感を、急浮上時や急潜行時といった例外を除けば決して乗組員に与えたりしない。もちろん、艦体にぶつかる波の音など聞こえるはずもない。常に聞こえる音といえば、空調のファンの音くらいだろうか。地面の上に建っている施設と、その点では変わらない。 小さな窓にシャッターが下りてしまえば、外の様子は分からない。海の上にいるのか、底にいるのか。前述のような例外を除けば、艦が動いているのかどうかさえ。 しかし、鯨の腹の中の不揃いな乗組員たちは、何故か肌で感じる。静かな静かな、海の底にいることを。 肌に染み込んでくるような静けさは、人恋しさを呼び起こす。 本人が望むと望まざるとに関わらず。わずかな、例外を除いて。 ブリッジから自室に戻る途中、喉の渇きを覚えたバルトは、ふらりとガンルームに立ち寄った。 時刻はといえば真夜中をとうに過ぎていて、メイソンの柔和な笑顔がカウンターの中で迎えてくれることは期待していなかったバルトを出迎えたのは、少々意外な光景だった。ガンルームの照明は全体がかろうじて目視できる程度に落とされていて、その場所の主である老執事のセンスの良さが窺えるムーディーな間接照明をしつらえたバーカウンターが青白く浮き上がっている。そこまでは普段と変わらなかった。意外だったのは、そのカウンターに座っていた人物だ。 青緑色の聖服は風景に溶け込んでいて、そのまま動かなければ見落としてしまいそうだったが、物音に気づいたのか、肩に隠れていたクリーム色の頭が動いて、こちらを向いた体を支える椅子の軋む音がした。 白い肌が青白い照明に浮き上がって見える。 「……こんばんは、艦長さん」 少なからず驚いて思わず動きを止めていたバルトは、その声にはっと我に返り、きまり悪さを隠すようにずかずかとカウンターに近づいていった。 「……何してんだ? こんな時間に」 「ラッパでも吹いてるように見える?」 立ち上がったビリーはためらうことなくカウンターの中に入り、「何か飲む?」とバルトを見上げた。意外なことが続いてなんだか異次元に迷い込んだような気分になりながら椅子に座ったとき、手に何か冷たいものがぶつかって、バルトは慌てて手を引っ込めた。 かすかに汗をかいたグラスの中で、氷が涼しげな音を立てる。ひょいと口元へ持っていきながらビリーの方を窺うが、その表情に非難の色はない。バルトはそのまま口をつけ、グラスを傾けた。チェリーの甘い香りと思いのほか強いアルコールの苦味が絡み合いながら、喉を滑り落ちていく。 酒なんか飲むのか? と聞こうとして、バルトはその言葉をアルコールの後味ごと飲み込んだ。外見は似ても似つかないが、あのジェサイアの息子である。酒飲みの遺伝子はしっかり受け継いでいるのだろう。何より、可憐なチェリーの香りは、彼にぴったりな気がした。 「一人で晩酌か?」 「まあね」 ビリーは壁の棚から迷うことなくグラスを取り出して、バルトの目の前に置いた。そのまま酒瓶のずらりと並ぶ棚に手を伸ばすのを、バルトは慌てて遮った。 「あー……酒はいいや、俺は。お前らみたいに強くねぇし」 酒は好きだったが、決して強い方ではない。ジェサイアが乗り込んで以来頻度が極端に増えた酒盛りでも、何杯か飲んではいい気持ちになって真っ先に寝てしまうのが常だった。だから嘘ではないのだが、バルトは咄嗟に出た今の言葉が本意ではなかったことに気づいていた。後ろめたさを押し殺して、明日早いし、と付け加える。 ビリーはバルトのそんなちょっとした動揺には気づいていない風に目をぱちくりさせると、肩をすくめて酒瓶を小さなやかんに持ち替えた。 「じゃあ、ココア入れてあげる。よく眠れるように」 「……頼む」 手際よくやかんを火にかけると、陶器のカップをカウンターに出す。ココアの粉と砂糖を袋からスプーンで小鍋に移す白い指の動きが妙に艶めいて見えて、バルトは視線をそらすことができなくなった。 「アイスがいい、とか言わないよね」 「あ、ああ」 ビリーは一瞬反応が遅れたバルトを怪訝そうに見下ろしたが、何も言わずカップにココアを注ぎ、バルトの前に無造作に置いた。 落ち着きを取り戻せないままのバルトはそれを勢いよくあおって、あまりの熱さに危うく吹き出しそうになり、目を白黒させながら無理に飲み込んだ。 「……馬鹿じゃないの」 呆れたような声に顔を上げると、ビリーの顔がすぐ目の前にあった。馬鹿とは何だ、と言い返そうとして、見事に火傷したらしい喉が痛んで咄嗟に声が出ず咳払いをしたバルトの首に、ビリーの白い指が絡みつく。くすぐったいような感触とその冷たさに鳥肌が立って思わず体を固くしたとき、その指から青白い光が溢れ出して、痛みが消えていくのが分かった。 「……お前、指冷てぇな」 「冷え性なんだ。平熱も低いし」 バルトはビリーの手をガラスの彫刻でも扱うようにそっと取り、自分の両手で包み込んだ。たった今酒を飲んでいたはずなのに何故こんなに冷たいのだろう。陶器のようになめらかな肌は、人形のようでさえあった。 「……サンキュ」 「ココア? それとも喉?」 「両方」 「君の手は、あったかいね」 ビリーは空いている方の手をバルトの手に添えると、目を閉じて頬をくっつけた。 指と違って、頬は温かい。 バルトはまたしても意外な行動を取るビリーがなんだか不思議で、首を傾げるようにしてその顔を覗き込んだ。目を閉じたままのその表情は穏やかで、自分に対してこんな顔をするのは初めてじゃないか、と思う。 プリメーラやシグルドに対してなら、こんな表情を見せたこともあるけれども。 「いつもこんなならいいのになぁ……」 「何が?」 「いんや、独り言」 「……そう」 ビリーは深く追求することなくバルトの手を放して、棚の方を向いた。どこか物憂げでしなやかな動作は、猫のそれに似ていた。バルトは脇に押しやられていた空のグラスを取り上げ、果実酒の瓶を持って振り返ったビリーの前に突き出した。 「明日早いんじゃないの?」 「気が変わった」 雰囲気に酔う、とはこういうことだろうか。 バルトはグラスに注がれた果実酒を一口で飲み干し、ビリーが酒を注いでいる彼のグラスのそばに置いた。ビリーは呆れ顔で瓶をわずかに傾け、グラスの四分の一ほどまで満たすと、瓶を棚に突っ込んだ。 「君がお酒弱いのは知ってる。今は止める人がいないから、僕が止めておくよ」 「お前は何杯飲んでるんだよ」 「四杯目……かな? 僕はいいんだよ、君みたいに弱くないから」 カウンターから出てバルトの隣に座り、なみなみと酒で満たされたグラスを満足げに傾ける。そんなビリーの動作の一つ一つを、バルトはじっと見つめていた。 お互いの呼吸が聞こえそうなほど、辺りは静まり返っている。薄青く弱々しい光に満たされた風景は、ちょうど海の底のようだった。 「海の底って、静かだね」 思い浮かべていたことと同じことをビリーが唐突に口にしたので、バルトは驚いてその顔を見返した。 「深く潜れば潜るほど、音が届かなくなる。ずっと潜っていたら寂しいだろうな」 どうやらバルトのように今の室内を比喩して“海の底”と言ったわけではないらしいが、それはそれで驚きだった。海面にいたユグドラシルが海底近くまで潜航したのはほんの十分ほど前、バルトがブリッジを出る直前のことである。時刻を考え、眠っている乗組員たちを起こさないようにゆっくり潜ったので、窓のないガンルームにいたはずのビリーが潜航を知るには床に腹ばいになって耳をくっつけてでもいなければならなかったはずだ。 「……よく潜ってるって分かったな?」 「なんとなく、ね。海の上を航行しているときより、静かな気がするんだ。空気が止まってる感じって言うのかな……君は、感じない?」 「そう……だな……?」 曖昧に答えたが、ビリーのその言葉には同意を覚えた。 砂の海にいた頃から、バルトは潜航するのがあまり好きではなかった。作戦行動の一環だし、異議を唱えたりするほど偏執的に嫌いなわけではなかったから口にしたことはないが、できることならいつも地上に顔を出していたいと思っていた。モニターに映し出される闇が嫌いなのだと思っていたが、ビリーの言った「空気が止まってる感じ」という言葉の方が、感じていた違和感を表現するのにしっくり来る気がした。 視覚からだけでなく、全身で受ける“海の底にいる”という感覚。それがバルトには“圧迫感”として感じられて、心の端に引っかかるわずかな嫌悪の源になっていた。 静寂は、好きではない。心の底まで冷え冷えとしてしまうから。 平たく言えば、寂しいから。 「もう慣れたけど、この艦に乗ったばかりの頃は、静か過ぎて眠れなかったんだ。風の音も、虫の声も、波の音も……何も聞こえない。あまり静かで、かえって頭の中でサイレンが鳴っているような気がして」 「ああ……あるな、そういうこと」 「さっきもそうだったな。騒がしいのは嫌いだけど、静か過ぎるのも好きじゃないや」 ビリーの言葉にうんうん、と頷きながら、バルトはふと微笑ましい気分になって、小さく笑った。 いつになく、ビリーの口数が多い。口喧嘩のときには罵詈雑言の弾幕を張るけれども、普段の彼はどちらかといえば物静かな方だ。自分から人に声をかけるのは日常の挨拶くらいで、話を振られれば適切な受け答えをしても、進んで話題を提供したことはバルトの記憶する限りではほとんどない。それは艦に乗って日が浅いためか、それともその身に起きた悲劇とも呼べる事件からまだ立ち直れていないためかは定かではないが、積極的に人と交わることを避けているように感じられた。 自分に対しても、それは同じだ。最悪だった出会いの印象はお互いに払拭した。言い争いをすることも多いが、それと同じくらい笑い合うことも多くなった。しかし、見えない最後の壁は取り払われないまま、自分の侵入を拒んでいるような気がしていた。 それが今は、自分が聞き役になって相槌を打っている。 たとえアルコールが入ったことによる一時的なものだったとしても、小さな変化は嬉しかった。 「静か過ぎる、なんてことこの艦じゃどこにいても皆無に等しいよね。ブリッジに行けばソナーやアラームの音、ドックに行けばエンジンの駆動音やリフトの動く音……いつでも誰かが忙しく働いてたり、騒がしく喋ってたり、口喧嘩をしてたり……」 朗らかにさえずり続けるビリーの声が心地良くて、バルトは話を聞くというよりも音楽を聴くように耳を傾けていた。 「だから、こんな風に静かなのはなんだか不思議。君は、嫌いでしょう?」 「静かなのが、か?」 「うん。騒音の親玉だし」 「親玉って……」 「冗談だよ。ムードメーカー、ってことにしておいてあげる」 「それ、褒め言葉か?」 「多分ね」 普段なら、一言多いんだよ! と強めに言い返して口喧嘩になるところだが、そのときのバルトの心境は自分でも意外なくらい穏やかだった。酔っ払っているのかもしれない。バルトは両手で包んでいたグラスを思い出したように唇に当て、溶けた氷ですっかり薄まった果実酒を喉に流し込むと、グラスを置いて体ごとビリーに向き直り、カウンターに肘をついて体重を預けた。 「確かに、潜ってるときの静けさは好きじゃねぇけど……こういう静けさは、悪くねぇな」 「こういう静けさ?」 「誰かといる静けさ」 捉え方によってはかなりきわどい言葉を口にしたことになるが、気にはならなかった。話している口がまるで他人の口のようだ。 やはり酔っ払っている。 「あまり静かだと、寂しくならねぇか? たまには一人になりたいとか思ってても、頭の隅っこではやっぱり一人は寂しいって思うんだ。完全に独りぼっちにはなりたくない。たとえ会話がなくっても、誰かと一緒にいたい」 「常に、誰かと繋がっていたい。他人の中で生きている自分を認識することで、初めて生きている実感を得る」 「誰かの存在を、いつでも感じていたい」 「一人では生きられない。誰かの中でなきゃ」 二人は歌うように言葉を繋いで、ふと口をつぐんだ。バルトは腕を前に投げ出し、カウンターに突っ伏すような格好で、首をひねるようにしてビリーを見上げた。 透明な瞳の中に、自分の悪戯っぽい顔が映っている。 「……他人の中で生きてる自分を認識することで生きてるって実感する……か。うまいこと言うな、お前」 「昔、何かの本で読んだ。つまりは寂しがり屋なんだね、みんな」 手持ち無沙汰にグラスをいじっていたバルトの手を持ち上げてグラスを取り、口をつける。低い目線から見上げているバルトには、その細い喉の動きがよく見えた。ビリーはグラスをカウンターに戻し、子供から取り上げたおもちゃを返してやるように、持ち上げたままだったバルトの手を元通りグラスのそばに置いた。その動作をじっと目で追っていたバルトは、ビリーの次の言葉を聞き逃した。 「……引力、かな」 「え? なんつった?」 「い・ん・りょ・く。分かる? こういうの」 ビリーはバルトのグラスの中から溶けかけた氷をおもむろにつまみ上げ、バルトの頬の上に持ってきた。溶けた雫が引力に従って滴り落ちる。 「つめっ……!」 飛び上がったバルトを面白そうに見ながら、氷の欠片をそのまま口元へ持っていく。バルトの恨めしげな目線は、カリカリと小さな音を立てて氷をかじる白い歯が時折覗く形のいい唇に吸い寄せられた。濡れた指先をぺろりと舐める仕草はあまりに蠱惑的で、全く、分かってやっているんじゃないかと思ってしまう。 「今のは、この星が僕らを引っ張る引力。でもねバルト、万有引力って知ってる? 質量のあるものにはすべて、お互いに引っ張り合う力が存在するんだ。この氷同士にも、グラスとカウンターにも。それから……人間同士にも」 磁石じゃあるまいし、とバルトは思ったが、意見も反論もしなかった。 なんとなく素敵な言葉だ。万有引力。 「人間同士の引力は、物理的な引力とはまた違うよね。でもそれと同じくらい普遍的にそこに存在する、抗えない法則」 「抗えない法則?」 「そう。……たまに、その引力がすごく強い人がいる。君みたいに」 ビリーは両手でグラスをもてあそびながら、バルトを見つめた。 「この艦は、君への求心力で回ってる。安っぽい言い方だけど、カリスマ性ってやつかな。理由はよく分かんないけど、みんな君に惹きつけられる。それこそ、磁石みたいなものだね」 「お前は俺に惹きつけられるか?」 思ってもいなかった言葉が自然に出た。バルトはカウンターに上半身を投げ出したまま椅子をがたがた揺らせてビリーのそばににじり寄り、その細い腰を片手で引き寄せた。なめらかな曲線に手がぴったり収まって心地いい。 「……なんだよ」 「万有引力。お前も、結構強いと思うぜ」 「この……酔っ払い」 「しょうがねぇだろ。俺は、惹きつけられるんだよ」 「……酔っ払い……」 ビリーはバルトの手をぽいっと無造作に振り払い、椅子から飛び降りた。そのまま背を向けようとするのを、バルトはその細い手首を捕まえて遮った。 「……もう寝るよ、時間も遅いし」 「一つだけ。こっち、向いて」 「何?」 バルトは透き通った青緑色の瞳を覗き込んで、自分が映っているのを確認してから、おどけた調子でこう言った。 「俺の中にはお前がいる。お前の中には、いるか? 俺」 ビリーは大きな目をぱちくりさせてしばらくバルトの顔を見返した後、小さく息をつきながらそっぽを向いた。 「……君の中に僕がいるなら、僕の中にもいるんじゃない」 凪の海の底。 不揃いな果実は、問いかける。 あなたの中に、私はいますか? 私の中には、あなたがいます。 >>BACK >>INDEX
作者の懺悔 |