COOL BLUE:REMADE 静まり返った食堂。食器の触れ合うわずかな音がいつになく騒々しく聞こえて、何故か後ろめたさを覚えたビリーは、壊れ物でも扱うようにトレーをそっとテーブルに降ろした。 冷たい椅子に体を預けると、這い登ってくる倦怠感に自然とため息がこぼれる。 壁の時計に目をやれば、朝食というには少々遅く、昼食というにはまだ早い中途半端な時刻である。一人きりの食事は疲労も手伝ってどうにも億劫だったが、スープのカップから立ち上ってきた温かな湯気が、食欲を呼び覚ましてくれた。 早速カップに手を伸ばしながらふと顔を上げると、意識の外にあったテーブルの向かい側で突っ伏している見慣れた頭のてっぺんが目に入った。さすがに驚いて耳を澄ますと、穏やかな寝息がかすかに聞こえる。どうやらぐっすりと寝入っているようだった。 つい先程彼宛の伝言を言付かったことを思い出し、テーブルに身を乗り出してその肩を揺すろうとして、ビリーはすぐに思い直した。この艦、もしかしたらこの世界で今一番の重荷を抱えているのは、きっと彼なのだ。一緒に背負ってやることはできなくても、わずかな休息を邪魔しないくらいの配慮は自分にもできるだろう。 椅子に座り直し、音を極力立てないようにスープを啜る。新しい血が流れ込んできたように、冷えた体が温まっていくのが分かる。 小さく息をついたとき、テーブルに埋まったように微動だにしなかった目の前の頭がもぞもぞと動いた。 「ん……うーん……」 小さな唸り声と共にゆっくり起き上がると、猫のように伸びをする。寝違えたのか、首をしきりに曲げながら辺りを見回している。眠そうに濁った瞳が、向かい側のビリーを見つけた。 「おはよう、フェイ」 フェイはけだるそうに泳いでいた目線をビリーの前に置かれた食事のトレーに止めて、大きな欠伸をした。 「……お疲れさん、偵察。悪いな、先に食っちまって」 「ん? ……ああ、うん」 寝ぼけているようで頭の芯はしっかり覚めているらしい。気遣うつもりが逆に気遣われる形になって、ビリーはかすかなきまり悪さを隠すように曖昧に頷くと、目を伏せてカップを傾けた。 スープの最後の一口を喉に流し込んだとき、ふと視線を感じてカップの縁から覗くと、いつの間にかぱっちり開いた茶色の瞳がこちらをじっと見つめている。どうかした、と尋ねる代わりに首をかしげて目をぱちくりさせてみせたビリーに、フェイは唐突にこう言った。 「そういえばさぁ、ビリーも綺麗な色だよな」 「は?」 主語の抜けた意味不明な台詞にあっけに取られたビリーは思わず間抜けな声を上げ、目をしばたたきながら改めて聞き返した。 「……何が?」 「ああ、ごめんごめん。あのさ」 フェイは屈託なく手を振りながら、顔にもう片方の手をやった。下瞼を指でわずかにめくるようにして、瞳を示す。 「目の色。綺麗だなって話」 「目の色?」 ビリーはおうむ返しに返事をして、つられるように自分の目を指さした。フェイが満足そうに頷く。 「そうそう。こないだの碧玉要塞のとき思ったんだけどさ、あいつらの目って綺麗な青だろ?」 「バルトたち? ……そうだね。“ファティマの碧玉”って言うくらいだし」 フェイの言葉に数週間前のニサンでの出来事を思い出そうとしたとき、何故か心の底が冷たくなるような感覚を覚えて、ビリーは自分でも不思議に思ってふと胸を押さえた。 「……ビリー? どうかしたか?」 フェイの声を待たず、ビリーはほとんど無意識にその感覚も自分が感じた訝しさも一緒くたにして意識の外へ押しやった。 そうして自分の心を無視することに、彼はいつの間にか慣れっこになっていた。それが、心を護る唯一の術だったから。 「ううん、何でもない。それで? 碧玉がどうかしたの?」 「あ、ああ。それでさ、マリアは緑色だし、それから……」 朗々とした声が突然途切れ、明るかった表情がさっと翳った。その理由を即座に理解したビリーは、フェイの顔からそっと視線を外した。 恋人の身を狂おしいほどに案じる心。普段は胸の奥底に押し込めているその禁忌に自ら触れてしまった後悔。それらを悟られたくはないだろうという配慮に加えて、彼の心を少しでも癒せる言葉を探す意味もあったのだが、それより早くフェイが言葉を繋いだ。 「……あいつも……綺麗な青だ」 いささか驚いたビリーがその顔を見直したときには、フェイは笑顔に戻っていた。 かすかな憂いを含んだ、哀しげな笑顔。 「……フェイ……」 「エメラダは……オレンジ色だな。みんな綺麗な色だよなー」 ビリーは胸が詰まるのを覚えたが、フェイの笑顔を無駄にすまいと素早く感傷を振り払い、何事もなかったように笑い返してみせた。 「それにしても、よく見てるね」 「羨ましくてさ。俺もなんか綺麗な色がよかったなー」 頬を膨らませるフェイの瞳を改めて覗き込むと、後ろで結った長い髪と同じ茶褐色をしている。もしこの瞳が青かったらどうなるのだろう、と想像したビリーは、頭の中で出来上がったイメージの不自然さに思わず小さく吹き出した。 「何だよ、何で笑うんだよ」 「だって、青い目なんか似合わないよ。茶色って、優しくていい色だと思うけどな」 「……そうかなぁ?」 納得したわけではなさそうだが、照れくさそうに頭を掻いているところを見ると、褒められて悪い気はしないようだ。どうやら空気を変えることができてほっとしたとき、ビリーは不意に失念していた伝言を思い出した。 「ああそうだ、フェイ。メカニックの人が、整備のことで話があるからハンガーまで来てくれないかって」 「ほんとか? 分かった。サンキュな」 立ち上がったフェイは出口に向かおうとしてふと立ち止まり、時計にちらっと目をやってから、ビリーの前に置かれたトレーに視線を落とした。 「昼飯、食えるか?」 フェイの言わんとすることを察したビリーは、同じように時計とトレーとを見比べて、肩をすくめてみせた。 「……できればそうしたいな。一人だと、食べた気がしなくてさ」 「それなら、今あんまり食べない方がいいだろ」 言うが早いかフェイはトレーの上に手付かずで乗っていたサンドイッチに手を伸ばし、ビリーが何も言わないうちに口の中へ放り込むと、「じゃ、後でな」と晴れ晴れとした表情で食堂を出ていった。 「………」 ビリーはあっけに取られてその背中を見送ると、呆れや感謝の複雑に入り混じった苦笑を浮かべ、残りのサンドイッチを頬張った。 「ああ、ビリー。ちょうどよかった」 元々どちらにも余裕があったわけではないが、刻印の解除以来人も物資も不足してしまったユグドラシルでは、たとえ偵察一つこなしても体が空くことはなく、数少ない戦闘要員だからといって優遇されることもなくなっていた。ビリーもその例に漏れず、食堂を出たところで通りかかったシグルドに捕まり、ブリッジへと連れていかれた。 「先程の戦闘時のデータを解析したのだが、銃……特に右のエーテルガンの照準がずれているようだ。午後で構わないから、調整をしておいてくれないか?」 一抱えある紙の束を渡されて、ビリーはため息をつかないように注意しながらその紙を覗き込んだ。違和感は確かに感じていたので、データの内容は見なくてもあらかた見当がついていたが、何だか随分枚数が多い……と思いながらめくっていくと、示されている数値が突然見慣れない組み合わせに変わった。上目使いでそっとシグルドを見上げると、普段は静かな湖面のように穏やかな瞳が、わずかにばつが悪そうに揺れた。 「それで……大変だとは思うが、その……」 珍しく口ごもるシグルドのその先の言葉を制して、ビリーは努めて明るく言った。 「大丈夫、任せて。ドックのギア全部まとめて調整しておくよ」 それはもちろん本来ならばドックに常駐するメカニックの仕事であり、レンマーツォとて他のギアに比べれば厳密な調整が必要とはいえ、日常的な整備を欠かさなければパイロット――ビリーが自ら調整しなければならなくなるような状態にはそうそうならない。それだけ人手が足りないのだ。もちろんビリーは自分の携帯する銃の手入れと同じくらい念入りにレンマーツォの調整もしていたが、それはユグドラシルに乗り込んだばかりの頃の話であり、最近は調整のずれを計算に入れて照準を合わせるなどということにはすっかり慣れてしまっていた。 そんな状態で狙いを外さないのか、という心配は彼に限り無用だが――あくまでも通常時は、である。 「済まないな」 心底申し訳なさそうに頭を下げるシグルドに、大変なのはみんな同じだよ、と返そうとして、ふとその瞳に目を止める。深い海の底を思わせる澄んだ紺青。冷たい色彩の中に、温かい光を湛えている。その光は、いつでもこの上ない安心感をくれる。 同じ色の瞳を持つはずの“彼”の顔を思い出そうとして、ビリーは何か引っかかるものを感じて首をかしげた。本当に同じ色だっただろうか? 顔はもちろんはっきり浮かんでくるのに、そこだけ記憶が欠落してしまったように、何故か青い瞳がしっくり来なかった。 「……どうした、ビリー?」 顔を見つめられた後に首をかしげられれば大抵の人間は腹を立てるだろうが、シグルドはどんなときでも温和である。我に返ったビリーは非礼を軽く詫びて、改めてその瞳を見つめた。 「……うん。シグルド兄ちゃんの目、綺麗だなと思って」 「目?」 自分の目を指して聞き返すシグルドの仕草がフェイと話していたときの自分と全く同じであることに気づいて思わず笑いながら、ビリーは食堂でのフェイとの会話を再現した。 「……それでね、よく見てるねって言ったら、羨ましくてさ、だって。そういうものかな? 僕は全然気にしたことなかったけど」 「ふふっ、フェイ君らしいな。私も気にしたことはなかった」 シグルドは愉快そうに笑うと、腰をかがめてビリーの顔を覗き込み、その頬にそっと手をやった。 「彼が羨むのも分かるよ。深い翡翠色……とても綺麗な色だ」 ビリーは照れ隠しに頭を掻きながら、再びシグルドの瞳を見返した。 穏やかな紺碧の瞳。 「やっぱり……なんか変だな」 「……?」 「……ねぇ、シグルド兄ちゃん。……バルトだって、同じ色なんだよね?」 唐突な質問に、さしものシグルドもあっけに取られたように目をぱちくりさせる。 「……個人差はあるだろうから全く同じとは言えないかもしれないが……何故?」 「だって、何だか感じが全然違うんだもの。しっくり来ない……って言うより、僕が覚えてないだけかな。意識して見たことなんかないし……」 喋っているうちに何故かきまり悪くなって、ビリーは口をもごもごさせた。余計なことを言うんじゃなかった、という後悔の念がじわじわと沸き上がってくる。それは、言いたいことをうまく言葉にできない恥ずかしさというよりは、自分の禁忌に触れることへの恐れという方が近いのだが、それは例によって知覚する前に意識の外へ押しのけていた。 「えぇと……その……多分、性格が違いすぎるからだね。まあ……どうでもいいか、そんなこと……」 無理やり締めくくって、恐る恐るシグルドの顔を窺う。その瞳は相変わらず穏やかだったが、ふと悪戯っぽい光が宿ったかと思うと、小さな子供にするように頭を軽く叩かれた。 「私に聞くよりも、自分で確かめてみればいいだろう? 簡単なことだよ」 「……確かめる必要なんかないよ。……どうだっていいもの」 まるで駄々をこねる子供をなだめるような言葉にわずかに覚えた反発が、ぶっきらぼうな返答に変わる。自分のその言葉を呼び水に、心の中の澱みが急速に膨れ上がった。 「副長!」 そのとき、ブリッジの隅から声がかかった。シグルドがそちらを振り向いた隙に、ビリーは素早く背を向けると、一目散に扉へ突進した。 しかし、両手で書類の束を抱えていては、そのままの勢いで扉の開閉ボタンを押して出ていくことはできない。体勢を立て直すべく扉の前で一旦足を止めたとき、扉が突然開いた。 「……!」 何の躊躇もなくずかずかと入ってきた相手の体がいきなり視界を塞いで、ビリーは一瞬後の衝突を覚悟して反射的に肩をすくめ、目をつぶった。 「おっと……! 悪い、大丈夫か?」 すんでのところで立ち止まったらしい相手の手がわずかな余勢を乗せて肩を掴む。押される形で一歩後ずさりしたビリーは、驚きも狼狽もまとめて心の底に押し込め、その顔を遠慮なく睨みつけた。 バルトがきょとんとした表情で見下ろしている。ビリーの肩に手をついたときのままの姿勢は降参しているようで滑稽だったが、笑う気にはなれなかった。普段なら機関銃のごとく浴びせかける罵詈雑言も先程から引きずっていた後ろめたさが押しとどめ、ビリーは肩で押しのけるようにして無言でバルトの横をすり抜けると、ブリッジを後にした。 「はぁ……」 レンマーツォの腕の上で遥か高いドックの天井を見上げ、ビリーがため息をついたのは、空に星が瞬き始めた頃だった。 ドックには時計はおろか窓もないので、星が瞬き始めた頃、というのはあくまで彼の憶測に過ぎないのだが、重く軋む腕や肩が、経過した時間の長さを教えてくれていた。昼食は結局パンで済ませ、午後いっぱい照準の調整にかかりっきりになっていたわけだが、ハンガーにずらりと並ぶディルムッドには一機たりとも手をつけることができていない。とりあえず戦闘メンバーのギアだけでも片付けよう、と重い体に反動をつけるようにして立ち上がったとき、最後の一機――アンドヴァリが見当たらないことに初めて気づく。 そういえば一時間くらい前に赤いものが視界の端を横切っていったような気がするな、とぼんやり思ったとき、ハンガーの下からメカニックの呼ぶ声がした。 「ビリーさーん、通信が入ってます。若から」 「……はい?」 思いがけない言葉に一瞬空になった頭の中にバルトののんきそうな顔が浮かんできて、たちまち苛立ちの嵐が巻き起こる。レンマーツォの腕を滑り降りる間にたっぷりと文句を考えたビリーは、メカニックが渡してくれた端末のマイクをひったくるように受け取るや否や、相手の言葉を待たずに怒鳴りつけた。 「一体どこで何してるんだい!? 通信する暇があるならさっさと戻ってきてくれよ! アンドヴァリの調整を終えないと、今日一日まともな食事せずに終わる羽目になるんだから! そしたら君の夕食もシグルド兄ちゃんに言って抜きにしてもらうからな!」 疲労と空腹が手伝っていささか子供じみたビリーの舌鋒に、モニターのバルトは降参したように手を振る。 『おいおい、すげぇ剣幕だな……ちょうど帰ってきたとこだよ。今、ユグドラの真上』 「は? ……それで、何やってるの?」 『ちょっとさぁ、甲板まで出てきてくれないか?』 「……はぁ?」 のんきな表情と間延びした口調にすっかり気勢を殺がれて、疑問や呆れ、脱力感のごっちゃになった吐息を漏らしたビリーは、思わず助けを求めるように周りを見回したが、相変わらず忙しく立ち働くメカニックたちは気にとめる様子もない。この修羅場が見えないのか、という意味を込めてカメラの前から体をずらしながら、モニターに視線を戻す。 「……あのねぇ、バルト……」 『いいからいいから。そうだ、照準の調整だろ? 表でやればいいじゃん。実弾使った方が正確にできるって。だからさ、早く出てこいよ』 いいから、と言われても何がいいのかさっぱり分からない。ビリーは口をつぐんでバルトの顔をわずかの間睨み返した後、端末のスイッチに素早く手を伸ばした。 『あぁ、ちょっと待った。シグなら了解済みだぜ、夕飯までに帰ってこいってさ。ディルムッドの調整は明日でいいって言ってたけど』 すかさず飛んできた言葉に手を止め、その表情をちらりと窺って、その言葉に嘘がないことはすぐ分かった。こと人を欺くことにかけては致命的ともいえる下手さを見せる彼が、何の動揺も表さずに嘘をつけるはずがないからだ。反撃の芽を摘まれた格好で押し黙るビリーに、バルトは満足げな笑顔を浮かべると、早くしろよ、と言い残して通信を切った。 「………」 ビリーはしばらく仏頂面のままその場にかかしのように突っ立っていたが、やがてマイクを置くと、メカニックに断ってからドックの出口へと向かった。 その足取りが驚くほど軽やかなことに、自分でも戸惑う。疲れているはずなのに、何かが背中を押しているように体が軽かった。調整をすると言っているのだし、仕事はさっさと片付けたいからだと理由をつけて、小走りにエレベーターに飛び乗る。 ハッチのロックが外れていることが、バルトの言うシグルドの了解を裏付けていた。何の障害もなく甲板に上がったビリーの体を、粉雪混じりの冷たい風が容赦なく叩く。乱れる髪の間から、中空に静止しているアンドヴァリの雄々しい姿が見て取れた。その手がゆっくりとこちらに差しのべられ、同時に開いたコクピットから見慣れた金髪が覗いた。 「うわっ、寒いなー……ビリー、早く来いよ!」 普段なら必ず何かしらの口答えをするところだが、それは乗り込んでからにしようと思い直し――何しろ、吹きさらしの甲板は思った以上に寒かった――ビリーは素直にその言葉に従った。ギアの手のひらに乗り、一抱えほどもあるその指にしがみつくと、緋色の巨人は壊れ物でも捧げ持つような仕草でその手を自らの胸に近づけた。 「ほら、さっさと乗れって」 差し出された手に、一瞬体が固くなる。ビリーはギアの指に腕を突っ張るようにして、コクピットから身を乗り出しているバルトを見上げた。 「……そこ、どいてくれる? 通せんぼしてちゃ、乗り込めないだろ」 バルトは目をぱちくりさせた。その表情にわずかに苛立ちの色が浮かんだように見えたそのとき、引っ込んでいた手がやにわにビリーの腕を掴むと、有無を言わせず一気にコクピットに引っ張り込んだ。 「……ったく、お前はいちいち……」 はずみでバルトの腕の中に収まる格好になった耳元で、バルトがそうつぶやくのが聞こえた。ニアミスしたことよりも文句を言われたことにまず思考回路が反応して、素早く体を離しながら睨み返すが、敵はそれきり気のない様子でそっぽを向くと、シートに座ってしまった。 「さすがに寒いなー、外は」 ごそごそと発進の準備をしながら、さも寒そうに剥き出しの腕をさすっている。見れば普段着のままで、防寒具の用意がしてある気配もない。コクピットの中は空調が効いているとはいえ、今ハッチを開放したことでその暖かさも風にさらわれて、すっかり冷え切ってしまっていた。そう意識した途端、触れ合った肩や腕に残った体温が急に鮮やかさを増して、ビリーは胸の奥の認めたくない熱を逃がそうと首を振った。 「……調整はどうせ僕がするんだから、君は平気だろ。中にいればあったかいから、指示通り操作してくれればいいよ」 心の波立ちを気取られまいとする反動で皮肉たっぷりのビリーの言葉に、バルトは珍しく反応を見せなかった。無表情で軽く一瞥をくれたきり、コンソールに向き直ると、黙ったままゆっくりギアを発進させる。 ビリーはシートの後ろのわずかな空間で体を縮めた。訪れた沈黙が冷たい隙間風のように心の中に入り込んできて、罪悪感にも似た感情をかきたてる。いわれのない責め苦に遭っているようで、苛立ちまぎれに目の前の背中を怒鳴りつけてやりたいのをこらえて、気を紛らわそうと外の景色に目をやる。 「……ちょっと待って、どこまで行くんだよ?」 思わず声を上げたのは、いつの間にか随分速度を上げた機体の後方に拠点のシルエットはおろかユグドラシルの灯火すら見えなくなっていたからだ。ビリーは慌ててシートの背を掴み、バルトを覗き込んだ。 「バルト! こんなに離れなくても、調整なら……」 「いいから、座っとけって。すぐ着くから」 「すぐ着くって……どこに行くつもりなの?」 ビリーはシートにしがみついて立ったまま辺りを見回した。薄闇を吸った青白い雪が重なり合うなだらかな凹凸が果てなく広がっている。不意に視界が斜めになったかと思うと、「さ、着いた」という声と共にかすかな浮遊感が体を包んだ。 アンドヴァリは雪の斜面を滑り降りて、丘を背に停止した。スラスターが巻き上げた雪煙が収まると、目の前の地面は雪の上に青黒いインクをこぼしたように断ち切れている。目を凝らしてそこが海辺だということを悟ったビリーは、シートベルトを外しているバルトをそっと窺った。 「……バルト?」 「ここならよく見えるかなーと思ったけど、今日はどうかな」 補助エンジンの重い音と振動が消えて、コンソールの計器類の灯が落ちた。スレイブジェネレーターの甲高くかすかな響きだけが機体の奥からほんのわずかに漏れていたが、ほとんど静寂といってよく、集めていた音が急に消えた耳の奥で、自分の息遣いとわずかずつ速まる鼓動だけが響いた。 「見えるって……何が?」 バルトはシートから立ち上がり、その背に手をついて、悪戯っぽい表情でずいと身を乗り出した。距離を取ろうと後ずさろうにもすぐ後ろはコンソールで動くに動けず、強化アクリルの張られたスクリーンの画面に手を突っ張って危うく体勢を保つビリーに、指先で頭上を示す。 「シグに聞いたんだけど、ここは極点に近いから、条件が揃えばオーロラが見えることがあるんだってさ。知ってるか? オーロラ」 「……実物を見たことはないけど」 ビリーはコンソールの端に浅く腰かけて姿勢を安定させ、頭上を仰いだ。今にも降ってきそうな、という形容がぴったりの満天の星空が覆い被さっている。スクリーンのフレームが空を規則正しく分割し、まるで大きな鳥かごの中から見上げたようだった。 「オーロラが見たかったの?」 全くこの忙しいときに、という悪態は、心にしみ込むような星の美しさがかき消してくれた。ほんの少しずつではあったが、張り詰めていた気持ちが和らいでいくのが分かる。 バルトはふと目をそらして、シートの背にもたれかかった。 「見たかったっつーか……見られるなら、お前に見せてやりたくてさ」 「……え?」 突然の意外な言葉に、落ち着きかけていた鼓動が再び乱れた。 「……最近忙しいし、なんかずっとピリピリしてるみたいだったから。ちったぁ、気持ちが安らぐかなって」 照れを隠すようなぶっきらぼうな口調で、普段の豪放さとは裏腹な優しさを示す。それは自分にだけでなく、誰に対しても変わらない彼の気遣いの表現だと分かってはいたが、闇の中お互いの体温まで感じられそうな狭い空間に閉じ込められていることが鼓動の高まりに拍車をかける。締めつけられるような苦しさに胸を押さえながら、同時にそんな自分に戸惑いと嫌悪を覚えて、ビリーは余計な感情を頭の中から振り払った。 「……相変わらずお節介焼きだね、君は。大体、忙しいのもピリピリしてるのも、僕だけじゃなくて艦の皆に言えることなのに……皆に平等に気を配れなきゃ、艦長としては失格になっちゃうんじゃない?」 「………」 「さあ、早く戻って調整を終わらせなきゃ。……こんな星空が見られれば、十分だよ」 とりあえず言葉の端に感謝の気持ちを挟むことはできたが、平常心を取り戻せたわけではない。ビリーはそれきり口をつぐむと、さりげなく顔をそむけ、コクピットの前部へ向かおうと立ち上がった。 「……!」 灯を落としたために暗く、そもそも立つのがやっとのスペースしかない床をうまく捉えることができずに足がもつれ、体勢を崩したビリーの肩を、バルトの腕が素早く支えた。ビリーは礼も言わずに慌てて飛びのこうとしたが、それよりも早く背中に回った腕に力強く引き寄せられて、動きを封じられた。 視界の端で金色の後れ毛が揺れて、頬をくすぐっている。幻のような距離に感じていた体温が、今は全身を包んでいる。動かす方法を忘れてしまったように体が動かない。自分の置かれた状況を理解するどころか、ただ爆発しそうに高鳴る心臓の鼓動に戸惑うことしかできずに、ビリーは強く目を閉じた。 「……艦長失格、そうかもな」 バルトの低い囁き声が、耳元で音楽のように響いた。 「皆に気を配ってるつもりでも、やっぱり優先順位ってやつがある。でも、それで失格って言われるなら、俺はそれでも構わないよ。……いや、気配りなんて偉そうなこと言えないかな。こんなとこまで連れ出したのも、どっちかって言えば自分の為なんだし」 ビリーは散り散りの意識をどうやらかき集めて、自分とバルトの体の間に挟まれて自由にならない腕に必死で力を込めた。圧迫されているためだけでなく、胸が苦しくて声が出ない。 「は……は、な……し……」 しーっ、と子供をなだめるように囁きながらも、ビリーの体を抱きすくめた腕は緩むことがない。その肩に顎を埋めるようにして、軽くため息をつく。 「……お前はさ」 「……?……」 「……お前は、相手の都合なんか構ってられないくらい……それくらい伝えたい気持ちとか、そういうのってないか?」 驚くほど真剣な声に、全身が熱を帯びるのが分かる。同時に、足元が崩れていくような恐怖に襲われて、ビリーは激しく身悶えた。 胸の奥にしまい込んでいた禁忌が引きずり出されてくる。許されるはずのない想いが。自分でも認めずに、認めるわけにはいかずに、かといって葬り去ることもできなかった想いが。今まで意識の外に追いやっては知らぬふりをしてきたものが目の前に突きつけられる。その疼きに苛まれる恐怖、そして、自分を抱きしめ耳元で囁く想い人の言葉の意味――自分の願いが叶うかもしれないという期待とは裏腹な、それを現実として捉えられない恐怖が、胸を穿つ。 「……――」 嫌がって暴れていると思ったのだろう、バルトは腕を緩めて、軽く息をついた。 「……いつも、そうやって俺を拒むんだな……自惚れるのも、これくらいにしとくか」 隙間の開いた二人の間に冷え切った空気が流れ込む。ふらつきながら顔を上げて、ビリーは唐突に気づいた。 彼の瞳の色が思い出せなかった理由に。 心の中を悟られるのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、そして想いが膨らむのが怖くて――今までずっと、正面から見つめることができなかったその瞳は、少し寂しそうな光を湛えて、まっすぐにこちらを見つめていた。辺りが暗いために、美しい碧色は闇を吸って暗く濁って見える。それが何故だか無性に悲しくて、ビリーの双眸から一筋ずつ涙が溢れて落ちた。 「……ビリー……?」 「……!……」 戸惑うように揺れるその光を見ていることができずに、ビリーはわずかずつ開いていっていた空間をかき分けるように手を伸ばし、バルトの胸にかじりついた。 望んでいたはずの現実が崩れ落ちてしまわないように。 愛しい人の首と背中に強く腕を回して、その温もりを胸いっぱいに吸い込む。 「……お……ねが……い――」 どこにも行かないで。僕を拒まないで。嘘じゃないよね? 夢じゃないよね? 胸が苦しくなって、それは声にはならなかった。しかし、応じるように背中に回された腕の体温は、その言葉に対するどんな答えよりも力強く、背後から追ってくる空虚な恐怖をかき消してくれた。 「……ビリー?」 震えながら嗚咽を漏らすビリーを案じるように、バルトがその背中をそっと撫でる。顔を覗き込もうとするのを、ビリーは首を振って拒み、バルトの肩口に顔を埋めた。 「……うーん。こういうときは、聞くのも野暮なのかなぁ……」 ビリーの背中を子供でもあやすように軽く叩きながら、心底困った様子でつぶやく。やがて意を決したように頷くと、ビリーの耳元に唇を寄せた。 「なぁ、ビリー。俺さ、ずっとお前が分かんなかったんだ。俺にばっかり突っかかるのは、ほんとに俺が気に食わないのか、それとも……って。だから、今度こそ知りたい。俺の本音は分かったよな? だから、聞きたい。お前の本音。お前の口から、今すぐ。俺がせっかちなのは知ってるだろ……?」 広い胸板越しに伝わってきた落ち着かない鼓動が、逆に安心感を与えてくれる。息を整えたビリーはバルトの首筋に耳を寄せて、そのリズムに聞き入った。 「……ううん、僕だって分からない。君の本音。今も」 「……え?」 「君の口から……ちゃんと聞きたい。今すぐ。僕が短気なのは知ってるだろ?」 言葉を真似てせがんでみせると、耳元のリズムが乱れるのがはっきり分かって、くすぐったいような愛おしさがこみ上げる。人をいきなり抱きしめておいて今更何が恥ずかしいんだ、とは言わずに、ビリーはわずかに腕の力を抜いて、戸惑っているらしいバルトの顔を覗き込んだ。 「……いつも、そうやって僕を不安にさせるんだね」 真似の中に込めたほんの少しの皮肉と抱き続けてきたわだかまりは、この距離のおかげだろうか、珍しくしっかり伝わったらしい。バルトははっとしたように顔を上げると、ビリーの両肩を掴んで胸から引き離した。 「……お、俺は……」 健康的に日焼けした頬が紅潮しているのが、薄闇の中でも分かる。 言葉でのややこしい説明は後回し、まず行動で示すのが彼の常であるから、いざ求められてもすぐには出てこないであろうことは分かっているし、歯の浮くような台詞を期待しているわけでもない。 飾りのない言葉を、――ただ一言。 完全に消えたわけではない不安を完全に消してくれる一言、ずっと焦がれ続けた一言を待ちわびるその時間は、長くもどかしく感じるのと同時に、永遠に続いてもいいとさえ思える胸躍るひとときでもあった。 落ち着きなく泳いでいた青い瞳が、やがてこちらをまっすぐに見つめて止まる。温かな指がビリーの頬に残っていた涙の跡をそっと拭い取り、そのまま頬を撫でた。そしてその唇が言葉を紡ぎかけた、まさにそのとき。 耳障りな電子音が静寂を破り、普段からそれを聞き慣れていて何の音かすぐに気づいた二人を乱暴に現実へと引き戻した。ビリーはとっさに身を翻してシートの陰に隠れ、バルトは飛びつくようにして通信のスイッチを入れた。 「こっ、こちらバルト……何だ? シグ」 シグルドはあれこれ質問しなかった。何の疑問も持たなかったのか、それとも気づかないふりをしてくれたのかは彼をよく知る二人にしてみれば明白だったが。 『そろそろ戻ってきてください、二人とも。もう夕食の時間ですよ』 「あ……ああ、分かった。すぐ戻る」 ビリーはシートの後ろで体を小さくしていた。しばしの静寂の後、シートベルトを装着する気配がして、補助エンジンの唸りが腹の底を震わせた。 加速の加重が去ったのを見計らって体を起こし、シートの背もたれ越しにそっと見上げると、バルトはわき目も振らずに正面を睨みつけて操縦桿を握っていた。何事もなかったようなその横顔を見ているうちに胸が苦しくなってきて、ビリーはシートの後ろに引っ込んで体を丸め、両膝の間に顔を伏せた。 たった今起こっていたはずのことがまるで夢の中の出来事のようだ。もしかして本当に全て自分の妄想に過ぎなかったのだろうかと居たたまれなくなって声を上げたくても、そんな勇気はとても出なかった。 幾筋もの強い光が薄闇を裂いてコクピットに射し込んでくる。ビリーはぼんやりと顔を上げて、ユグドラシルのカタパルトの床に着地したアンドヴァリを照らし出すライトを見上げた。それはさながら夢の終わりを意味する合図のようで、熱の引いた胸の奥が鈍く痛んだ。 バルトがいつになく手際よくギアを進め、ハンガーに格納する間、ビリーは積み木細工でも組むように心を平常に戻していた。たとえ夢だったとしても平静でいられるように――心が崩れ落ちないように砦を築いていた、とも言える。時間が経つにつれ戻ってくる冷静さは、マイナスの思考しかもたらさなかったからだ。 夢じゃないと、もう一度―― エンジン音が無情に消えていき、辺りを静寂が支配した。シートベルトの金具が触れ合う音が丸めた体を急き立てる。ビリーが抱えていた膝を放してのろのろと立ち上がるのと同時に、スクリーンに映し出されていたドックの風景が消え、コクピットは真の闇に包まれた。 シートの背につかまってハッチが開くのをぼんやりと待っていたビリーの瞳に、しかし光は射してこなかった。 気配が不意に近づいたかと思うと、両肩を掴まれて強く引き寄せられる。反射的に上げた顔に仄かな熱が覆い被さった、次の瞬間。 温かく柔らかなものが、唇に重なるのを感じた。 頭より先に体が反応して、全身が燃えるように熱くなる。呼吸も心臓も止まってしまいそうで、全ての感覚が唇に集中するのが分かった。 ややあって唇が解放されると、耳元でバルトの低い囁き声がした。 「……お前が、好きだ」 肩を支えていた手が離れ、全身の力が抜けたビリーはそのまま腰が砕けて床にへたり込んだ。ハッチが開いてドックの強い照明が射し込み、逃げるようにコクピットを飛び出していくバルトの背中がシルエットになって視界の端に映る。 「……!」 ビリーは何とか膝をついて体を起こし、慌ててコンソールの上に身を乗り出した。転がるように機体の上を滑り降りて、一目散に走るバルトの姿が遠ざかっていく。 小さくなる背中に、普段なら覚えるうすら寒い不安は、そのときは全く沸いてこなかった。 唇をそっと噛んで、肩に触れられた感触よりもはっきりと、抱きしめられた感触よりも甘く残る温もりを確かめ、心に刻みつけるように何度も反芻する。激しくも快く高鳴る胸を押さえて、ビリーは小さく息をついた。 「……僕はまだ、何も答えてないのに……」 自分だけ答えを聞かずに逃げるなんてずるい。口の中でつぶやいて、かすかな体温の残る小部屋を後にする。 まるで躁病患者のように気もそぞろな足取りで歩くその胸の中には、今まで感じたことのない安らぎが溢れていた。 小さな世界は満たされて、 そして、癒し得ない傷を癒す力へと変わっていく。 言葉一つは拙くても、 別の世界へ届くように。 たとえ、明日さえ見えない世界でも。 >>BACK >>INDEX
作者の懺悔 |